二度と行かないだろうと思った街に再び行くことになってしまった。四年半ぶりのレシフェはそんな感じだった。
1997年6月から一年間、僕は勤めていた出版社を休んで南米の地に降り立った。最初の半年はサンパウロに滞在、その後バスで南米一周の旅に出た。サンパウロから、リオ、サルバドールと北上して行き、レシフェに着いたのは丁度十二月三十一日のことだった。昼間から街を歩いていると、どこからか爆竹の音が聞こえた。夕方の六時過ぎには、慌ただしくシャッターを下ろす音が聞こえあっという間に、通りにはブラシを持った掃除夫しか居なくなった。
がらんとした街で手持ちぶさたになった、僕は安宿に戻りベッドに寝ころびながら、1998年の幕開けを祝う花火の音を聞いた。
2002年の今年、再びレシフェの街を訪れることになったのは、サッカー選手の廣山望がレシフェにあるスポルチというクラブに移籍したからだ。廣山と僕の付き合いは、2001年にペルーの大統領選挙を取材に行った時に、廣山がたまたまリベルタドーレス杯でリマに来ておりインタビューをしたことから始まった。その後、ラテンアメリカに取材に行く時は、様々な雑誌に企画を持ち込み取材費を得て、廣山のいたパラグアイを訪れて話を聞くようになった。
廣山とスポルチは、2002年三月に契約した。しかし、就労ビザの取得に手間取り、一ヶ月経っても試合に出られる気配はなかった。そして、ワールドカップに日本代表に選ばれる機会を失った。市原に戻るという手もあったが、廣山は敢えてブラジルに残った。
日本では廣山を責める市原関係者の言葉が報道されていた。廣山はピッチの中で結果を出せばいいと考えていたのか、ブラジルで取材する手間をメディアが惜しんだのか、廣山の声が報じられることはほとんどなかった。
四月のある日、僕は思いきってレシフェの廣山に電話してみた。
「若い選手が多くてやりやすいんですよ」と受話器の向こうの廣山はいつものように淡々と答えた。負けず嫌いの廣山が弱音を吐くことはないことは分かっていた。
自分でサイトを運用するほど、パソコンを使いこなしている廣山は、日本の報道をインターネットで読んでいるはずだった。かつての所属クラブから悪く言われ、試合にも出られない。廣山は厳しい状況にいた。
「ゴールデンウィーク明けにはそちらに行くよ」
僕の言葉に廣山は「本当ですか」と明るい声をした。
ワールドカップが近づき、代表に選ばれていない廣山は半ば忘れられた選手になっていた。どこの雑誌に企画を持ち込んでも取材費はでないだろう。
しかし、そんなことはどうでも良かった。異国の地で一人、戦う廣山を少しでも励ませるのならばと、僕はレシフェに向かうことにした。
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