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疾走ペルー 最近の仕事っぷり
   
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2001年8月31日


ハバナ発オルギン行き
<予定>
30日14時発で13時間、翌朝3時にオルギン到着。
<結果>
30日14時20分発で23時間40分、翌日14時にオルギン到着

ハバナからオルギンまでは、747キロ、運賃26.5$。まさか24時間も掛かるとは思わなかった。駅にいた警備員によると「七十年ほど前」の客室車両を、ディーゼル車が引っ張る。車両ごとに色の違う、色あせた合皮の座席。
もちろん、冷房はない。開け閉めも満足にできない硝子窓。走っている時はまだしも、停まると四十度近い空気が車内に流れ込んでくる。
結局ディーゼル機関車が故障し、二度交換。
かつてブラジルで、サンパウロからアマゾンに向かうバスに五十時間揺られたことがあった。あの時も冷房はなかった。しかし、あのバスは営業ベースに乗っ取ったもので、数時間おきにきちんと休憩がある。食事の時間も予定されていた。今回は、機関車故障の他にも何度も何時間も停車したが、光一つない草原の中。駅には満足に物は売っていない。

24時間の車中、身体の収支
●入
・水、約750t(ハバナで500tのペットボトルを買ったが、駅で列車の到着を待っている内になくなってしまった。駅の飲料水をボトルに詰めて飲んだが、妙な味がした。しかし慣れとは恐ろしいもので、それを飲み干し、最後は列車のトイレの横の水、それも暖かくなった水を飲んでいた。)
・キューバ製コーラ 500t、6ペソ(道中、身体に入った唯一の冷たい飲み物。車内販売は途中からなくなってしまい、途中から乗客の飲み物は、トイレの横の水だけになってしまった。20ペソで1$)
・キューバ製ラム 約300t(ハバナで買ったラムの残りを持ち込んだ。それは隣に座った男とすぐに空けてしまった。すると、通路を挟んだ男が、安いキューバ製ラムを空き瓶に移してくれた。どんよりとした車内で口に含むラムが多少気持ちを紛らわせてくれた)
・コロッケパン二つ(車内で食べた唯一のまともなもの。出発して3時間後ぐらいに回ってきた車内販売で、隣の男がおごってくれた。一個1ペソ)
・スナック菓子二切れ(これも隣の男がおごってくれた)
・飴一つ(隣の男のおごり)
・ピーナッツ菓子一つ(隣の男のおごり)
・ドーナツ一個(近くに座っていた婦人が一個くれた。これも車内販売。最初の五時間ほどは車内販売があったのだが……)
●出
・蝋のように身体に張り付いた汗
・血(停まっている車中に大量の虫が入ってきて何カ所か刺された)
・諦め

 

 

 

2001年8月28日


明日、横木さんがメキシコシティ、ヒューストン経由で帰国。僕一人キューバに残る。この国の不味い食事を不味いと語り合いながら食べることさえできなくなる。これから十日ほど不味さを一人で噛みしめなければならない。それだけが辛い。
僕も明後日、ハバナを発とうと思っている。キューバ島の東部オルギンという街に列車で向かうつもりだ。
今回、僕はロンリープラネットや辞書を除くと一冊だけ本を鞄に入れてきた。
それは、レイナルド・アレナスの「夜になる前に」。
キューバ生まれの作家。作品が反革命であること、同性愛者であることからフィデル・カストロ及びキューバ政府から徹底的に弾圧された。80年にアメリカに亡命。90年、エイズを患い、帰国できない母国キューバを思いながら自殺した。
「夜になる前に」はそんな彼の自伝的小説である。翻訳本が出たのは、四年ほど前。すぐに買って読んで気に入った。とにかく面白い。その後スペイン語の原作を取り寄せたほどだ。
オルギンは、レイナルド・アレナスの故郷だ。オルギンのそばの漁村で生まれ、オルギンに移った。
何を撮っても美しく描いてしまうヴィム・ベンダースの「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」と「夜になる前に」は同じ国を描いたとは思えないぐらい違う。全然、違う。
レイナルド・アレナスの生まれた街、オルギンはどうしても見たいと思っていたのだ。

 

 

 

2001年8月27日


ハバナには小さいながらも中華街がある。大通りから入った狭い通りに中華料理店が並んでいる。中国風の服を着た男や、チャイナ服の女性がメニューを持って通行人を呼び込む。
中華料理は僕たち日本人にとって一つの気休めになる。自国の料理ではないが、ほとんど同じようなものだ。中華料理は、どこの国にもある。気を抜きたい時にはぴったりだ。
だいたいどこの国でもひどいということはない。
さて、ハバナの中華街。赤い柱など確かに中華風の建物。しかし、あまり亜細亜系の顔つきの人がいない。呼び子はみんな混血、あるいは肌は黒い。こぼれ落ちそうな大きな胸とお尻にチャイナドレスが似合わない。
また、ここの中華街は旨くない、と聞いていた。だから期待もしなかった。
いくつかの店を覗き、横木さんと僕は、比較的混んでいる店に入った。薄暗い店内はほぼ満席。壁には、中華料理コンテストで二位に入賞したという賞状が貼られていた。
ずんぐりとした黒人のウェイターのお勧め料理は、海鮮炒飯と、海鮮焼きそばだった。
「量もあって旨い」
僕たちはこれに鶏のスープを追加した。
ところが……。料理が出てこない。
待つこと、十五分。鶏のスープが出てきた。先が変色したもやしが中に入っている。
テーブルにはスプーンとナイフしかない。これでは食べられない。混血のウェイトレスに箸とフォークを持ってくるように頼んだ。しかし、持ってこない。空腹に耐えかねて、スプーンを使って、ほうれん草に口をつけた。
思わず顔をしかめた。砂っぽい。ちゃんと洗っていない。
避けたつもりのもやしが口に入ってしまった。生臭い。腐りかけのようだ。とても食べられたものじゃない。
スープを半分ほど飲んで諦めた時に、ウェイトレスがフォークを持ってきた。
まあ、ここまでは許そう。
お勧め料理はまだこれからだ。
待つこと十分。
混血のウェイトレスに催促。横木さんも少々苛立ち気味。
さらに十分。最初の黒人のウェイトレスに催促。
他のテーブルもあまりに料理が出てくるのが遅くて沈黙している。
「お待たせ」
黒人のウェイターが両手に皿を持って出てきた。
見たとたん、失敗したと思った。二つとも、茶色いひからびたようなもやしが髭のように飛び出ている。
仕方がない。もやしを避けて魚とご飯を口に入れた。
また、生臭い匂い。刻んだ青葱が臭い。
僕と横木さんは無言で、麺とご飯を口に運んだ。それでも半分ほど皿に残っている。
「下げてもいいか」
黒人のウェイトレスが皿を持った。注文を取るのも、持ってくるのも遅いが、下げるのだけは早い。これはどこのレストランも一緒だ。
思わず、口から言葉が出た。
「下げてくれ。もう十分だ。この料理は世界チャンピオンだよ。色んな国で中華を食べてきたけれど、ここまでひどいのは初めてだ」
僕の怒りにたじろいだか、ウェイトレスは無言で皿を下げた。
不味い。肉にしろ、魚にしろ素材は不味くない。恐らく野菜にしても保存の仕方を知らないのだろう。料理の仕方も、接客の仕方も。ないないづくし。
しかし、それでいいと開き直る。客も諦める。これが社会主義ってものか。
本当に食事はお粗末だ、この国は。楽園的な描かれ方をすることが多いこの国だが、食に関しては地獄だ。この国の料理人は、食材を冒涜している。
この国の名誉のために付け加えて置くが、ヘミングウェイの通ったというコヒマルの海沿いのレストランはなかなか美味しかった。

 

 

 

2001年8月26日


サンチャゴ・デ・クーバからバラデロへ。
パラデロは、子犬のしっぽのように海に張り出している。しっぽの付け根から先は、キューバではない。
青々とした芝生の中に、赤、青、黄色の色で塗られたホテルが建ち並ぶ。さらに進むとゴルフ場。玩具の世界のような、コテージも見える。
バラデロのホテルはほとんど団体専用。スペインを初めとする欧州からツアーを組んで、二週間単位で滞在する。ほとんどのホテルは、ラスベガスのようにホテルの中で全てのことが足りる。専用ビーチ、プール、ジム、レストラン、バー、キャバレー。ホテルの中には、最初から料金の中に、宿泊費のほか、飲み物、食べ物すべて料金に含まれたものもある。敷地内のレストラン、バーで飲み食いする分は全てお金が掛からないというわけだ。
遠浅の海は澄んでいて綺麗だ。かなり深くまで行っても底が見える。ビーチには監視員が立っている。
欧州からハバナ、ハバナから直接バラデロの飛行場に着けば、出迎えが来ており、ホテルで水遊び。チェ・ゲバラのTシャツを土産に買って帰る。
バラデロという街は、キューバの他の街と比べると確かに過ごしやすくできている。道路標識があって道に迷うことはない(キューバの東部は幹線道路にさえ標識はほとんどない)。
街のレストランに入ったが、不味くはない。しかし、値段も張る。日本と同じか、それ以上。こちらの一般の物価、人件費(月収十ドル程度)を考えると、べらぼうの利益率。
この半島は、安全と快適さを売り、観光客から金を吸い上げる。フィデル(カストロ)が作ったディズニーランドなのだ。
そんなバラデロから今日、喧噪のハバナに到着。太陽は今日も強く厳しい。

 

 

 

2001年8月24日


サンチャゴ・デ・クーバに三泊。
街の中心地で知り合ったフランス人曰く。
「この街はキューバで一番ヒネテーロが多い」
ヒネテーロとは、“たかり”のことである。街に入ると、自転車で先導するといって金をせびる。車を止めると、見ているからと言って金をせびる。いいレストランがあるから連れて行くというヒネテーロ。彼らについて行くと食事代に彼らの仲介料が上乗せされる。宿泊についても同じようだ。この街では警官の許容範囲を越えるヒネテーロがいるという。
車を見張るのに1ドル。月収が十ドル強のこの国ではまともに働くよりも、観光客の周りでヒネテーロしているほうが実入りがいいのだ。
街の中心地は丘陵地になっており、古い建物が立ち並んでいる。ちょっとリスボンに似ている(リスボンは写真で見ると綺麗な街だが、実際には汚い。写真は嘘をつく)。

そうそう、キューバの食事事情について追加。キューバのレストランは確かに不味い。最悪。
しかし、だ。
昨日、サンチャゴ・デ・クーバの郊外の家に招待された。蠅が飛び交い、地を豚と鳥、犬がかけずり回る。
貧しい家だったが、僕たちのために鳥を締めて料理してくれた。旨かった。
キューバの家庭料理は不味くない。スペイン語のできない横木さんのことを始終気に掛けてくれた。食事はもとより、本当に楽しめた。優しい人々。これもキューバの現実だ。
これから千キロ近く走って、ハバナの近くバラデロへ向かう。
バラデロは美しいビーチがあり、キューバ最大の観光地。ホテルが立ち並ぶ海岸とのこと。五年前に行ったときには、寂しい海岸の街といった印象しかなかったが、どうやらずいぶんと変化しているようだ。

 

 

 

2001年8月22日


とにかく食事が不味いのだ。
ラテンの国が食事が旨いというのは、全くの嘘。世界三十カ国以上を回ってきたが、この国の食事は最低ランクに位置する。それも他に大きく離された最下位だ。
別に僕は食事にうるさいとは思わない。どこの国でも、安食堂の定食で満足する。
探せば安くても旨いものは見つかるのだ。
ところが、この国は違う。社会主義なので勝手に食堂を開くことはできない。競争がないところに進歩はない。
ハバナから車で移動中、シェンフエゴスという街で止まった。写真家の横木さんも僕も、ハバナのホテルで朝食を取ってから何も食べていなかった。時計は夕方の四時を回っていた。車を止めると、高そうな門構えのレストランが見えた。ここでいいだろう。二人は無言で顔を見合わせて、門をくぐった。
中に入ると、愛想はいい。店員は珍しい日本人客を迎えて無駄話。しかし、出てきた食事といえば……。
ウエイターが勧めた海老料理は、賞味期限の切れかかった家の冷蔵庫の干し蝦のほうがまし。サラダの野菜はしなびかかっており、腐りかけの匂い。一番悪いのは、それが不味いのだと店員が分かっていないことだ。
この店だけではない。ホテルの朝食のパンは妙に柔らかい。料理はほとんど味がない。
旨い食事というものがこの国にはないのかもしれない。旨いというものがなければ、まずいという判断もできない。キューバに来る予定のある人は覚悟したほうがいい。
で、僕たちは、キューバ島の東部、サンチャゴ・デ・クーバに無事到着しました。

 

 

 

2001年8月20日


昨日、車を借りてキューバ島の西部を回ってハバナに戻ってきた。
社会主義のこの国では、僕たちが当たり前だと思っているものがない。つまり、道沿いのレストランやバール。貨幣をサービスに使うという発想が希薄なのだ。
ハバナでは観光客が溢れている。だからドルの使えるレストランはある。しかし、少しハバナから出ると全く、だ。もちろん、村落や街に入るとレストランらしきものはある。しかし、中は暗く、入りやすいという感じではない。日曜のせいか閉まっているところも多い。
とにかく圧倒的に店の数は少ない。車を走っても休憩する場所がないのだ。
当たり前のことが当たり前ではない島に来たという気がした。
今日から、車で東へ、サンチャゴ・デ・クーバへ。

 

 

 

2001年8月19日


変わっていない、と思った。
ハバナの空港からのタクシーを降りるとガソリンの匂いがした。あっという間に鼻腔から口まで、質の悪いガソリンの匂いで覆われた。
しかし、ガソリンの匂い以外、目に入るものは五年前に来た時と、ずいぶんと変わった。
革命前、アメリカ合衆国の準植民地時代に走っていた大型車が減り、欧州の小型車が増えている。街角に立つ警官たち−−。前回来た時は観光客の少ない秋で、今回は夏の混雑の最後ということもあるかもしれない。
でも、それだけではないような気がする。このひっかかりはどこにあるのだろうか。

 

 

 

2001年8月18日


アメリカ合衆国、ロサンゼルスを経由して、メキシコシティに到着。
といっても一筋縄ではいかないのが、ラテンの世界。
成田からロスがデルタ航空、ロスからメキシコシティまでがデルタとメヒカーナ航空との共同運行便。ロスの乗り換え時間は二時間弱。ロスでアメリカ合衆国に一度入国して荷物を引き取らなければならないという。
成田の頼りなさげな空港職員は
「アメリカの場合、二時間あれば一度入国して出国できることになっています」と言った。
ところが、まずアメリカ合衆国の入国審査官の手間の遅いこと。また、一番遅い列 に並んでしまったという不幸。
入国して荷物を受け取ったのは、出発の三十分ほど前。
「五十三番のカウンターへ」 デルタの職員の指示で、出発カウンターに走った。
しかし、五十三番のカウンターではしばらく待たされた後、「ここじゃない、五十番のAへ」
五十番のAに行くと、「ここでは発券できないので、五十一番へ」
しかし、五十一番には人はいない。
ようやく職員を捕まえると、「飛行機が遅れているから……」
もう出発時間だというのにチェックインさえできていない。周りを見回すと同じような客が何人もいた。 客もどうしていいか分からないが、職員も状況を把握していないようなのだ。
さすがデルタ……。
出発時間を四十分以上過ぎてから、ようやくチェックインができた。急いで機内へ。席はビジネスにアップグレードされていた。
「あなたの忍耐に感謝します」
とスペイン語で言って発券してくれた女性の顔が浮かんだ。
そういえば、ロスの空港は以前にも増してスペイン語が流通していた。メキシコの航空会社メヒカーナのカウンターはもちろんだが、入国審査の列を整理していた女性もスペイン語で話していた。
アメリカ合衆国はラテン化しているのだ。
一泊して明日、キューバのハバナへ。
キューバ入国は5年前の96年以来。どんな風に変わっていることやら。

 

 

 

2001年8月13日


8月のこの時期は東京から人が消える。車通りは少なく、和らいだ雰囲気になる。
その東京の中心、東京タワーのすぐそばにキューバ大使館はあった。蝉の鳴く公園に面したまだ新しいビル。
一人二万円以上という破格の値段を払って無事に取材ビザを取得。
キューバにとっての主幹産業はもはや砂糖黍ではなく、観光であることを実感した。
今週末から、キューバへ出発。

***

前略
6月末、パラグアイ、スペインから戻ってきてわずか一ヶ月半ほど。
8月17日より再び日本を空けます。
今回の主たる目的地は、キューバ。写真家の横木安良夫氏と一緒に、一週間ほどキューバ国内を車で巡り、その後二週間ほど一人で滞在します。
キューバという国は、見えにくい国です。美しい太陽、海岸、人々の笑顔、サルサ。その一方で、命を掛けてゴムボートで国を脱出する人たち、敵国でもあるアメリカ合衆国貨幣“$”が公然と通用し、キューバ・ペソとの二重構造となっている。
キューバの市井の人々は何を考えているのか。
カストロの後はどうなるのか。
不完全ではありますが、スペイン語が話せるので、通訳を使わずにキューバの奥深くに入っていこうと思います。
このルポは、雑誌『NAVI』(二玄社)で連載、単行本化(アミューズブックス)の予定です。他、週刊誌でも露出を予定しています。
キューバはインターネット環境が整っておらず、メールでの連絡を取りにくくなります。時折、アメリカ合衆国、もしくはメキシコまで電話を繋ぎメールを送受信します。
近況は、この『週刊田崎』で報告して行く予定です。

 

 

 

2001年8月4日


銀座のシネスイッチ銀座で始まったスペイン映画「蝶の舌」を観に行った。
これはスペイン内戦直前のガリシア地方を舞台している。主人公は少年と、定年間近の老教師。喘息持ちの少年は教師と自然から人生を学んでいく。
昨年と今年、スペインには二度、計二ヶ月強滞在した。
多くの人が、スペインといって思い浮かべるのはフラメンコがある南部のアンダルシア地方だろう。
ただ僕は、観光地としか感じられなかった。バルセロナの喧噪にもうんざりとした(所謂スペイン語、カスティーリャ語よりもカタルーニャ語が通用していて言葉が理解できな かったこともある)。
気に入ったのは、北部バスク地方のサンセバスチャン、そしてガリシア地方だった。
映画の筋をだらだらと書くほど、無粋なことはないので詳しくは書かないが、「蝶の舌」は非常に良く出来ていた。ここ数年観た映画の中では出色の出来だと思う。
主人公の教師は言う。
「自由とは宝物(テソロ)だ。それは奪えないものだ」
少年が教師から借りた本のタイトルは、 「ラ・イスラ(島)・デ・テソロ(宝物)」
宝物の島、つまり「宝島」。
宝島にある宝石よりも、もっと大切な宝物、自由が大切なものであることを少年は気づく日が来る−−。
フリーターなどという、自由と無責任を混同した職業がまかり通ってしまう自分の国を少々うんざりと思った。

 

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