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疾走ペルー 最近の仕事っぷり
   
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2001年9月21日


サンパウロからメキシコシティ。シティで夜を越してロス、そして成田へ。いつもながらの長旅。
久しぶりの日本の空は雨模様。

***

前略
本日9月21日、五週間に渡る取材旅行より帰国しました。
キューバに三週間強、その後パラグアイへ。この間、アメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起こりましたが、幸い影響はありませんでした。
さて、今回の主たる目的地のキューバ。
出発前の挨拶文では、“見えにくい国”と表現しました。今回、車、列車、バスで国中を回って感じたことは−−奥歯に物が詰まったような国。

このキューバのルポは、まず来月発売の『週刊現代』(講談社)のカラーグラビアにて露出します。その後、以前もお伝えしたように、『NAVI』(二玄社)にて数回連載、単行本化(アミューズブックス)の予定です。写真は全て、写真家の横木安良夫氏http://www.alao.co.jp)によるものです。
その後のパラグアイでは、アスンションのセロ・ポルテーニョに所属する廣山選手に会ってきました。これは『サッカーダイジェスト』に掲載します。

 

 

 

2001年9月19日


サンパウロに2泊。これからメキシコシティ、そしてロス、成田へ。

 

 

 

2001年9月17日


昨日は、セロ対オリンピアの試合があった。この国でもっとも人気がある2チームの試合。廣山が先制点を挙げた時のスタジアムの熱狂はすごかった。周りにいた人が、なぜか僕に握手を求めてきた。
しかし、試合はその後、オリンピアの選手が“手”で得点したこともあり、2対3でオリンピアの勝ち。
太陽の日差しは強いのだが、日陰は冷える。試合は16時から始まったが、途中からかなり冷え込んだ。
冷え込みは夜になって強くなり、今朝は寒さで目が覚めた。
キューバの暑さに慣れていた僕にとって、この寒さは少々きつい。
親切で優しいパラグアイを今日出て、サンパウロへ。

 

 

 

2001年9月13日


ブエノスアイレスから高原を追ってアスンションに来た、ライターの寺野、カメラマンの梁川さん、南米に強いカメラマンの三村さんと、アスンション在住のジョニー渡辺さんと韓国料理屋で食事。
現地を熟知する三村さんは一人“紅トンボ”というカラオケへ。僕たちは、ハープのコンサートを聴きに行く。
23時すぎに“紅トンボ”で再び、三村さんと合流した。
三村さんは、すこしきつめのパーマに口髭。風貌はちょっとしたメキシコ人である。テレビのサッカー番組にも時折顔を出す。南米の各地、日本人の報道陣が現れないスタジアムに現れ、写真を撮る。その経験、知識は厖大。そして
威張ることもない。僕たちは一軒目の韓国料理屋から三村さんの話に聞き入って
いた。
僕たちが“紅トンボ”に到着すると、三村さんは、ボトルキープしてあるスコッチを飲んでいた。
三村さんはホルヘ三村という別名を持つ。
僕たちは“紅トンボ”でホルヘとなった三村さんを見ることになった。
「僕はもう酔っていますから、ちょっと歌いますね」
ホルヘはマイクを持つとスペイン語の歌を歌い出した。
そして足はステップを踏む。
足を交差させ、くるりと回る。
タンゴだ。一人タンゴ。
僕たちは思わず「ホルヘ」と叫んでいた。
隣のテーブル、見知らぬパラグアイ人のテーブルからも「ホルヘ、バモス」と歓声と拍手が上がった。
現地の人とのつき合いも面白いが、国外で知り合う“日本人を超えた日本人”とのつき合いも面白い。

 

 

 

2001年9月12日


昨日、廣山のいるセロ・ポルテーニョのスタジアムに行くと、たくさんの日本人報道陣が来ていた。みな、ボカにいる高原を追ってブエノスアイレス来ていた。
高原は、日本代表歴が長いことせいか、廣山よりも注目度が高い。しかし、日本、アルゼンチン両国のマスコミと一切口をきかないのだという。
異国での慣れない生活に神経質になるのは分かる。ただ、報道陣はわざわざ来てくれているのだから、話をすればいいと思うのだが……。
かつて、野球選手というのは世間知らずだった(今もそうかもしれない)。野球のエリートとして少年野球、中学校野球部、そして高校野球を経てプロへ。当たり前の社会生活を知らぬまま年を重ねる。恐竜のように、大きな身体をしながら、常識レベルは中学生で止まったまま。
かつて、サッカー選手はそうではなかった。僕と同年代の選手、武田たちが少年時代はプロがなかった。サッカーで食べていくなくてことは夢だった。一つ下の北澤はホンダでプレーしている時、昼間は工場で働いていた。当たり前の人間がどのように生活しているか、周りにどのように気を遣わなければならないのか、などというのは、自然と学ぶ。
それが、前園あたりの代から変わったと思う。世間知らずの子供とちやほやする大人たち。サッカーという一般の人間からかけ離れた村社会の中で生活できてしまう。しかし、人生は長い。やがて、つけは回ってくるだろう。

さて、今日は、廣山の所属するセロ・ポルテーニョと、高原のボカ・ジュニアの試合だった。高原は先発したものの、彼の精神状態を示すように、孤立。周りのサポートがなく何もできなかった。高原が下がった後、後半途中からグラウンドに現れた廣山は再三右サイドを突破し、攻撃のリズムを作った。勢いの出たセロは、“ルパン三世(顔がそっくり。ナイナイの岡村にも似ている。つまり猿顔だ)”ことビルヒリオ・フェレイラが後半ロスタイムに決勝点をあげ、セロが劇的な勝利を飾った。
試合後、セロのロッカールームに行くと廣山が記者に囲まれていた。周りでパラグアイ人記者が「話を聞きたいんだけれど、終わらないんだ」と肩をすくめた。
輪の外に僕が立っていると、シャワールームの中から、声を掛けられた。全裸でタオルを腰にまとった混血の男が手を挙げている。
「元気かよ。来ていないのか思った」
前回パラグアイに来た時、セロは前期優勝を飾った。試合後、選手たちは市内のディスコに集まって朝まで優勝を祝った。僕はその中に混じったのだが、その時一緒にビールを飲んだ選手だということを思い出した。
「昨日、日本人の報道陣が沢山セロに来ていたから、お前のことを捜したんだ」
ポルトガル語訛のスペイン語で男は右手を差し出した。僕たちは手を握り、再会を祝った。
実は僕は彼の名前を知らなかった。ディスコでは、妙に愛想が良かったので、控えのブラジル人選手だと思っていたのだ。シャワーを浴びているということは、試合に出ていたようだ。
少し話をして、シャワールームから出た。近くにいたパラグアイのプレスに、「あいつの名前は」と指をさすと、ちょっと驚いた顔をして「ペドリーニョだ」と教えてくれた。
なんと、セロのボランチ、中心選手だった。ペドリーニョはシャワーから出ると、テレビカメラの前に立ちインタビューを受けていた。
ペドリーニョのように、普通の人間同士のつき合いが出来れば、高原はもっと楽になると思う。
その夜、廣山は日本人報道陣が集まるレストランに顔を出して挨拶をした。自然体で人とつきあえる人間は強い。

 

 

 

2001年9月11日


サンパウロで12時間過ごした後、パラグアイのアスンションに昨夜遅く到着。
久しぶりに、シーツの上で手足を伸ばして眠った。
ハバナ最後の夜は、資料の整理やら出発の準備でほとんど眠れなかった。昨日はメキシコシティからサンパウロの飛行機の中。ベッドの上でまともに眠るのは三日ぶりだったのだ。
昨日、サンパウロで、友人と食事をした。日系人街のリベルダージ地区にある和食屋。和食と言っても、寿司や刺身と言ったいわゆる外国人向けの“和食”ではない。僕がその店で頼んだのは、“さっぱり炒飯”と“ニラ玉炒め”。さっぱり炒飯は、刻んだ梅干しが入っており、名前通りさっぱりしており美味しかった。
リベルダージには、この店だけでなく、豚カツやお好み焼き、ラーメンといった、本当の和食が食べられる店が沢山ある。もちろん日本語も通じる。
サンパウロは、日本から最も遠く、地球の裏側に位置するのに、遠くにいる気がしない。僕の頭の中の(歪んだ)地球儀では、キューバよりもずっと日本に近い。
サンパウロに住む友人とも、ここ一、二年はメールで頻繁に連絡を取り合っているので、久しぶりという感じはしなかった。
さて、三ヶ月ぶりのアスンション。灼熱の地から来た身としては少々肌寒い。

 

 

 

2001年9月10日


メキシコシティからカンクンを経由して、サンパウロへ。僕の愛用航空会社のバリグ・ブラジル航空はがらがらだった。座席二つを使って眠った。
サンパウロは冬の終わり。二十度そこそこの気温が心地よい。
今晩の飛行機で、パラグアイの首都アスンションへ。

 

 

 

2001年9月9日


3週間ぶりのメキシコシティ。ベニート・ファレス空港構内の店の看板、並んでいる品々、全ての色が鮮やかに毒々しく見える。キューバは自然の色以外はくすんでいた。
メヒカーナのオフィスで、パラグアイ往復のチケットを購入。
「パラグアイといえば、日本人のサッカー選手のいるらしいな」
カウンターの陽気な男は僕に尋ねた。廣山のことだ。
名前まではまだちゃんと覚えられていないが、セロ・ポルテーニョに日本人選手がいることはかなり知られている。
切符の予約をしながら、ワールドカップ予選で苦戦しているメキシコ代表の話をした。
野球の国、いや、野球のことでも自国の選手以外はあまり知らない、キューバという情報の孤島から、普通のラテンアメリカに戻ってきたことを実感した。
空港を歩いている時、インターネットカフェが目に入っていた。パラグアイの知人に到着予定を知らせるメールを出しておこうと考えた。
ところが行ってみると、硝子窓には「営業中」という札が出ているのだが、中には誰もいない。十台ほどのiMacが並んでいるのが見えるが、扉には鍵が掛かっている。
「もう三十分も前から待っているんだが、誰もいない」
レンズの向こうの目が不自然に大きく見えるほど度の強い眼鏡を掛けた、白人男性が店の前を小走りに駆け寄ってきた。
男は、「中にいるんじゃないか」とガラス戸を強く叩いた。アメリカ人のようだった。スペイン語を話しているのだが、アクセントが違う。
男は、近くを通りかかった空港の制服を着た男を捕まえて、事情を説明した。
「食事にでも行ってるんだろう」
「でも、こんな時間だ」
時計は三時。
「食事だよ、食事」
「表示には、朝九時から夕方7時まで開いていると書いてある」
「一時間ぐらいで戻るんじゃないかな」
制服の男は、アメリカ人の苛立ちに困惑して答えた。
「緊急でメールを送りたいんだが、どうなっているんだ、この国は」
僕は近くに腰掛けて待つことにした。
男は店の前を行ったり来たりして二十分ほど待った。そして、頭から湯気を出しそうに真っ赤な顔をして去っていった。
今度は別の男が僕の隣に座った。この男もアメリカ人だった。僕と同じように今日、キューバから戻ってきたところだった。これからロスに戻るという。
「仕方がないね」
僕たちはスペイン語と英語で、キューバの話をして時間を潰した。

待つこと一時間強。
若い女性が戻ってきて、何食わぬ顔で鍵を開けた。

 

 

 

2001年9月8日


3週間以上に渡ったキューバ滞在も今日が最終日。食事が不味いと嘆いたが、いざ離れるとなると少し寂しくも感じる。
日中も暑いが、かなり温度も下がった。日陰をたどりながらハバナの旧市街をぐるりと回った。
ガルシア・ロルカがキューバ滞在中に通ったという、バー“ドス・エルマーノス”でモヒートを飲んでいた。
モヒートは、ラムをペースにしたキューバのカクテルだ。といっても飲むのは観光客で、キューバ人は、量り売りのラムを生で飲む。遠くで、雷の音がした。そういえば、昨日も遠くで鳴っていた。しばらくするとまた雷の音がし、ぽつりぽつりと振り出し、雨足が強くなった。
「9月は毎日、雨が降る」
ウエイターは、雨を見つめていた僕に言った。
この島にも秋が来ている。僕の熱かった夏も終わりつつある
明日の飛行機でハバナを発って、メキシコシティへ。

 

 

 

2001年9月5日


ハバナの海岸沿い、マレコン通りに近い民宿に僕は泊まることにした。民宿というのは、キューバ独自の宿泊制度で、一般の家庭が国家の許可を得て部屋を間貸している。経営者は、国に税金という名の上納金を納めなければならない。
キューバでは一番安い宿泊手段ではあるが、ハバナの中心地で一泊25ドルから30ドル程度。他の街ならば15ドル程度から。ぺらぼうに安いというわけではない。いや、他の南米諸国、物価の安いエクアドルなどでは、三十ドル払えば、四つ星のホテルに泊まれることを考えればかなり高い。
さて、ハバナの民宿。
目の前は、映画「苺とチョコレート」の舞台となったレストラン。20世紀初頭に建てられた古い建物の三階がレストランになっている。先日来た時には閉まっていた。
扉の前には、
「9月から営業開始します」
との紙が貼られていた。
もう9月になっている。
しかし、夜になり宿の窓から眺めても三階の電気は点らない。道にたむろする男の一人に尋ねた。
「いつから営業するんだ」
「9月20日らしい」
「この間は9月からと張り紙があったけれど」
男は笑った。
「今度は20日からという張り紙がしてあるよ」
そういう国だ。

 

 

 

2001年9月4日


サンチャゴ・デ・クーバは先々週、来た時と違って観光客の姿がめっきり減っている。8月までは旅行の季節。労働の月、9月に入っていることを改めて実感した。
街の中心、セスペデ公園の近くを歩いていると、理髪店の中から声を掛けられた。
「座って、座って」
口髭を生やした男が、挟みを片手に手招きした。
日本を出て、もうすぐ三週間。髪の毛もずいぶん伸びている。そろそろ切るのも悪くない。そう考えて、僕は理髪店の古い椅子に腰掛けた。
「短くしてくれ」
僕の言葉に、口髭の男はなぜか嬉しそうな顔をして、僕の肩を叩いた。
ガシャ、ガシャという、切れの悪そうな挟みの音。
数週間日本を離れると、異国で髪の毛を切る機会はどうしても増える。
今年三月、ペルーでのこと。首都リマの旧市街の古いショッピングセンターに理髪店が二軒並んでいた。そのうち、僕は混んでいる方に入った。中には、先客が二人座っていた。隣は誰も待っていなかったのだ。
待つこと1時間強、ようやく僕の番が回ってきた。混血の背の低い男は、ヘアカタログを渡して、選ぶように言った。僕は単に短くして欲しかったが、仕方なく頁をめくり、短い髪の毛をした男のモノクロ写真を指さした。
男は頷くと、僕の髪の毛をガシャガシャと切り始めた。しかし、細かく細かく切っているため全く進まない。僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
鼻をつく匂い。
目を開けると、なんだか様子がおかしい。前の鏡を見ると、僕の前髪にカールがぶら下がっている。
「何をしているんだ」
慌てて男を見ると、平然とした顔で、「大丈夫、大丈夫」と頷く。
「僕は髪の毛を巻いてくれなんて頼んでいない」
「大丈夫、大丈夫」
結局、待ち時間を合わせて四時間近く。僕の髪の毛は、角刈りのようにてっぺんは平らに短くされ、前髪は長く巻いているという奇妙な髪型になってしまった。
結果的にこの髪型はペルーの街にはとけ込むようで、その後、焼けた肌のせいもあってか、僕は日系ペルー人と思われ、タクシーなどでふっかけられることもなくなった。
サンチャゴ・デ・クーバの理髪店の男は、手際よく頭を裾から短くしていった。前髪はいじらない。刈り上げ頭に近くなったが、リマの髪型よりはずいぶんましだ。僕は1$払って店を出た。
明日の飛行機でハバナへ。

 

 

 

2001年9月2日


ヒバラからオルギン、オルギンでバスに乗り換え、サンチャゴ・デ・クーバへ到着。

 

 

 

2001年9月1日


レイナルド・アレナスの故郷、オルギンは静かな、何の変哲もない田舎町。ビシタクシーという、サイドカーのように自転車の横に座席をつけたタクシー、馬車が道をひっきりなしに通る。
街の中心に図書館があり、その前で本を売っていた。椅子に腰掛けていた女性に
「この街出身のレイナルド・アレナスの本はあるか」と尋ねると、
「知らない。ここにはないわ」
複雑な笑みを浮かべた。
「そんなことより、ここにはオルギン出身の作家の本を売っているの。みんな素晴らしい作家」
欧州を中心に世界中で読まれていながら、生まれ故郷では抹殺されている作家。
オルギンから、タクシーで海沿いの街ヒバラへ。レイナルド・アレナスが初めて見た海。
上下左右に曲がった山道を抜けると、前に青い青い海が広がった。

 

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