www.liberdade.com/
疾走ペルー 最近の仕事っぷり
   
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2002...........2001..>..12..>..11..>.10..>.9..>..8...>..7..>.6.

 

 

2001年10月30日


四年前のことだ。
97年のクリスマスの日、ブラジルのサルバドールという街にいた。
サルバドールは最初の首都だ。街を建設するために、アンゴラなどポルトガルが植民地としていた国から、沢山の黒人が運び込まれた。街にはその影響で、未だにサンパウロやリオと違って黒人が多い。
護身術でもあった踊り、カポエイラはサルバドールの黒人の間で発展した。もっともアフリカ色の濃いブラジルの街といえる。ブラジルの作家ジョルジ・アマードは、サルバドールに住み、大地の壮大な物語を紡ぎ出している。雰囲気のあるいい街だ。
さて、サルバドールの街外れにボンフィンという古い教会がある。
教会の中には、脚や手の形をした模型がところ狭しと吊してある。自分の身体の悪いところを教会に置くと良くなると信じられているのだ。ボンフィンがブラジル中で有名なのは、そうした治癒の能力と、テープだ。
フィタ・ド・ボンフィン(ボンフィン・テープ)と呼ばれるリボンを手首に巻く。
巻く際、三つの結び目を作るのだが、一つつづに願いを込める。テープが自然に切れる時、願いが叶うと言われている。
僕はこの教会の前の男にテープを巻いてもらった。
赤いテープはすぐに細くなり、紐のようになった。じきに切れると思っていたらなかなか切れない。寝ている時も、仕事をしている時も、プールで泳いでいる時も、サッカーをしている時も、シャワーを浴びている時も僕の右手首には紐がついていたのだ。
そのテープが、今日切れた。
着替えをしていた時、ジーンズに引っかかって切れた。
どんな願いを掛けていたのだろうと記憶を探った。
一つは覚えている。
自分の名前で本を出すことだ。これは叶いつつある。
残り二つは何だったのか、どうしても思い出せない。
今度、ブラジルに行った時に、また巻いてもらおうと思っている。

 

 

 

2001年10月26日


朝7時まで掛かって、ようやくキューバの単行本原稿が完成。しかし、どうもまだ気に入らない。何でも物を作る時はそうだろうけれど、完璧なものはない。
パラグアイ帰国からほぼ缶詰状態だったので、そこから脱出できたことは喜ばしい。後は色々と修正していこうと思う。
ゴーストライターとしての仕事を除くと、自分の名前では初めての単行本となる。
写真半分、文章半分の単行本。写真は横木安良夫氏が撮影したもの。最後の十日は横木さんと分かれて一人で旅をしたので、その部分については僕の写真を使うかもしれない。
詳しくは、また報告します。

 

 

 

2001年10月12日


今週は、キューバの単行本の原稿にかかり切りになっている。十二月に発売するためには時間はない。そのため家に閉じこもってパソコンに向かっている。
今月5日から、新宿パークタワーで展示している、作家の戸井十月氏の写真展へ。今年、戸井さんがアフリカを縦断した時の記録だ。
12日は戸井さんの誕生日であり、会場でパーティがあったのだ。
戸井さんと僕が一緒に酒を飲むようになったのもキューバが絡んでいる。もう七年ほど前のこと、銀座のバーで、偶然戸井さんの横に座った。
戸井さんのことを知ったのは高校生の時。映画『爆裂都市』(石井聡互監督)の原作、及び劇中の“キチガイ兄”役が強烈だった(サイドカーで現れる謎の兄弟で、弟役が当時 町田町蔵、現 町田康だった)。この映画はとにかく爆発のシーンが多く、コピーは、「これは爆発の映画ではない。映画の爆発だ」だった(戸井さんが作ったコピーだったそうだ)。荒っぽい映画だったが、見たことがない、スピード感のある映画だった。大学入学後一時期、映画サークルに所属したのはこの映画の影響が多分にある(一年でやめてしまったが)。
さて、初めて戸井さんと会った時、話したのが『爆裂都市』の話、そしてもう一つがキューバの話だった。大学生の時、オートバイ雑誌『ゴーグル』で戸井さんのキューバ・ルポを読んでいた。当時のキューバはかなり規制が厳しく、観光担当の人間がずっとつきそうという話が書かれていた。写真が綺麗で、空が青かったことが印象的だった。戸井さんはその後もキューバにこだわり、ゲバラを題材にした『ロシナンテの肋』を上梓している。そして今、僕がキューバのことを書いているのも何かの因果だろう。
で、アフリカ大陸。
僕は、アフリカ大陸の中では、まだモロッコしか知らない。今は、言葉の通じる中南米を中心に回っているが、何年か後には行ってみたいと思っている。
アフリカ大陸の言語は、現地の言葉が入り交じっているのはもちろんだが、旧植民地だったフランス語と英語がかなり通じるらしい。そろそろフランス語を勉強せねば、と思ったのだった。

 

 

 

2001年10月5日


帰国して二週間。五週間も日本を空けていたのだから当たり前だが、やらなければならない仕事が山積み。ほとんど缶詰状態で、自宅で原稿を書いている。
明日6日発売の『週刊現代』(講談社)で先日のキューバのルポが掲載される。
フリーになってもうすぐ二年。最初の一年は働いていなかったから、実質十ヶ月ほどのフリー生活。すでに様々な雑誌やインターネットメディアで原稿を書いてきた。
しかし、今回の『週刊現代』だけはちょっと特別だ。
僕はかつて週刊誌の編集者として働いていた。『週刊現代』は最大の対抗雑誌だった。
会社を辞めたのが1999年12月31日。その翌日、2000年の年賀状はそうでもなかったが、今年の年賀状はかなり減った。僕は毎年おおよそ二百枚ほどの年賀状を出すのだが、返事を含めて返ってきたのはそれほど多くなかった。
それまで勤務していたのが、大きな出版社だったから、その名前で来ていたものが多かったのだと、思った。
ただ、力づけられる葉書が何枚かあった。短い言葉を書き添えて、僕を気遣ってくれていた。
それが、今回キューバに一緒に行った写真家の横木安良夫氏であり、週刊現代の現編集長の鈴木章一氏だった。
顔を合わせると「応援しているよ」などと励ましてくれる人は沢山いた。ただ、実際に仕事の場を与えてくれる人はそんなにいない。
だから、今回は特別なのだ。

 

(c)copyright 2001 KENTA TAZAKI All rights reserved.