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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年7月24日


今日は天津飯を食べに、北京から天津に足を伸ばした−−というのはもちろん嘘。
そもそも天津には、天津飯も天津麺も天津甘栗も存在しない。
ファンキーさんは、中国人ミュージシャンを大阪の「餃子の王将」に連れて行き、天津飯を教えたと いう。
さて。
天津には、オリンピックのサッカー競技に使われる天津オリンピックセンターがある。今年九月には 、オリンピックのプレ大会ともいえる、女子のワールドカップがここで行われる。
確かに、スタジアムは完成していた。ただ、その周りはといえば……。労働者たちの宿舎だったであ ろう場所は、塵が溢れていた。ガラスや発泡スチロールがブルドーザーで踏みつぶされており、歩く のに気を遣わなくてはならなかった。そして、顔をしかめずにはいられない異臭が立ちこめていた。



 

 

 

2007年7月22日


今回の北京行きは、前回ファンキー末吉さんの記事を書いた時と同じ、僕の古巣である『週刊ポスト』のグラビア記事の取材である。オリンピックを一年後に控えた北京の街を走り回っている。
今日は、ファンキー末吉さんが、モンゴルから帰ってきたというので、彼の住む費家村に出かけた。
まさに貧民街、である。だが、中に入るとのんびりとした空気が流れており、危ない感じがしない。
村の中でも、ファンキーさんの住んでいる一角は“ロック村”になっている。ファンキーさんの家にはドラムを据え付けたスタジオがある。前の家にはウガンダ人のパーカッション奏者が住んでいた。斜め前にも中国人バンドが住んでいる。貧しくも楽しそうな一角である。
「モンゴル人の格好いいヘビーメタルバンドがいた」
モンゴルから帰ったばかりの、ファンキーさんの顔は少し疲れていたが、嬉しそうだった。


費家村にて。


 

 

 

2007年7月19日


北京の市内に着いたのは、夜の九時半になっていた。
急いで荷物を置き、地壇公園にあるライブハウスに向かった。そこには知人であるファンキー末吉さんがドラムを叩いていたのだ。
元爆風スランプのリーダー、ドラマー、そしてコンポーザーでもあるファンキーさんとの付き合いは八年ほど前に遡る。

かつて−−中国ではロックは反政府の象徴だった。
ファンキーさんは天安門事件後の90年に初めて北京を訪れている。偶然、中国にロックバンドを見る機会があった。 当時、ロックは政府当局から禁じられており、アンダーグラウンドで演奏されていた。中国のロックバンドは、荒削りで技術はなかったが、強い魅力があったという。それはロックという音楽の本質であったかもしれない。
当時、ファンキーさんは爆風スランプで“売れる”ことを過度に求められ、厭気がさしていた。自分が音楽を始めた時のひたむきさ、純粋さを中国のミュージシャンから感じたファンキーさんは、その後何度も北京に足を運び、中国語を覚え、中国でもっとも有名な日本人ミュージシャンとなった。
この辺りの経緯は、ファンキーさんの著書『大陸ロック漂流記』に詳しい。
中国の変化は日本よりもずっと早い。
90年代が進み、中国は開放路線を推し進めた。その中で、中国のロックは産業化し反政府的な匂いを消し去っていった。
中国政府の方針と中国ロックが交差したのが、99年だった。
上海とは違い、北京では政府当局は頑なに大規模なロックのライブを認めなかった。その当局がこの年、当時ファンキーさんの友人であった『黒豹』というバンドにライブの許可を出したのだ。
その“歴史的”なイベントを見るために、ファンキーさんと僕は北京に出かけた。
僕にとって正直印象の残るライブではなかった。大音量は客の興奮に繋がると、リハーサルから音量を下げさせられた。そして、観客は手を叩いて喜ぶことも、規制された。なにより、黒豹の演奏から、ロックの匂いを感じなかった。その日のことを、僕たちは「中国ロックが死んだ日」呼んでいる。このライブのことを僕が小学館の社員時代、『週刊ポスト』でグラビア記事にした(本当に好きな記事を作っていたものだと、つくづく思う)。
その後、ファンキーさんは活躍の舞台を完全に北京に移した。僕は年に最低数ヶ月は日本を空ける生活を続けている。僕たちは、数年前に大阪の路上で偶然会って以来、顔を合わせる機会がなかった。
今回、取材で北京を訪れることになり、すぐにファンキーさんに連絡を入れることにしたのだ。
ファンキーさんが、翌日からモンゴルで行われるロックイベントに参加するというので、到着してすぐにライブハウスに向かった。
僕にとっては99年以来の北京。あの時と全く姿を変えてしまった、眩い街を眺めながら、酒を酌み交わした。拝金主義をひた走る中国社会で生活しながらも、ファンキーさんは昔と全く変わっていなかった


翌日、北京の胡同にて。左奥に見えるのは、新築された国立大劇場。
北京はいつも曇っていて、遠くの物は白く覆い隠されてしまう。


 

 

 

2007年7月15日


目を覚ますと雨は上がっていた。天気予報では今日、台風が関東に上陸することになっていた。雲行きが怪しい中、僕は川崎に向かうことにした。
この日はアメリカンフットボールのW杯の決勝、アメリカ代表と日本代表が対戦することになってい たのだ。
このW杯のサイトには、大会の説明として、“アメリカンフットボールの世界一決定戦と書かれている”。
ただ、この言葉通りに受け取る人間はいない。
アメリカンフットボールという競技は、アメリカ合衆国が圧倒的に強い。これまで二回のW杯で日本は連覇しているとはいえ、アメリカは参加していなかった。今回、初めてアメリカが大学生を集めて 、参加することになった。
アメリカという国を代表してくるチームが、NFLのような超人的な技と力を見せてくれるのかと、 楽しみにしていたのだ。
ところが−−。
目の前のアメリカ代表は思っていたのと違っていた。 試合は、一進一退、力は拮抗していたが、日本代表が終始押し気味に試合を進め た。しかし、日本代表は、延長戦で敗れた。
スポーツ紙は「日本が本場に善戦した」という調子の記事になっていた(本当にそう思っていたのかどうかは不明)。
確かに、試合としては悪くなかった。台風の中に一万人もの人を集めた意味はあっただろう。
ただ、僕はすっきりとしない気持ちだった。
アメリカ代表の選手のプロフィールを見ると、レベル的には大学の二部あるいは三部リーグの選手しかいなかった。NFLのドラフトに掛かるような有望選手が参加すれば、圧倒的な差がついてしまい 、大会がしらけてしまうとアメリカ側が、気を遣ったのかもしれない。とにかく、アメリカ代表には 飛び抜けた選手はいなかった。
また、試合前に愕然とする話を聞かされていた。
攻撃の要のポジションであるクオーターバック(QB)には三人の選手が登録されていた。一人の選手は大会を戦う間に怪我をしてしまった。もう一人の選手は「兄の結婚式のため」に決勝の前にアメリカに帰国していた。
決勝戦に出ていたQBは、いわば“三本目”で、所属している大学でもほとんど試合に出ていなかったらしい。経験が必要とされるポジションのQBがそうした状態だったのだ。
もしかして彼らは、「アメリカ代表」というよりも「アメリカのそれほど強豪でない大学の選抜チー ムの遠征」という意識だったのかもしれない。そうでなければ、いくら家族を大切にするアメリカで も、大切な国際大会の決勝を前に帰国を認めることはしないだろう。
かたや、日本代表は国内にいる最高の選手を集め、合宿を積んでいた。
日本代表にとっては、勝たなければならない相手であったのかもしれない。
ホームという地の利を生かして、「アメリカ代表」と名前のついたチームを破ったとすれば、次の大会で彼らは多少本気になるだろう。
そうした意味で、本当に惜しい敗戦だった。



 

 

 

2007年7月9日


帰国後、落ち着かない生活を送っていた。
さて、先日の出張の時の取材が誌面になる。
まずは、今週火曜日発売の『週刊プレイボーイ』(集英社)で前日本代表監督ジーコのインタビュー。今年三月に『週刊ポスト』で取材した記事の続きと言ってもいい。W杯の時、日本代表にいた「腐ったミカン」は誰だったのか? オシムのサッカーについてどう思うのか?恐らく初めてだと思うのだが、今の日本代表の試合を録画したものを見て貰いながら話を聞くことができた。日本にいる時と違って、様々なことを気さくに話してくれた。ジーコの経営するサッカーセンターで二日間にわたって、くつろぎながら取材できた雰囲気が出ていると思う。
また、来週の『女性自身』(光文社)には女子アメリカンフットボールの鈴木弘子さんの記事が掲載される。


今回は『週刊プレイボーイ』も『女性自身』も自分で写真を撮った。
『女性自身』で使わなかった弘子さんの写真を一枚。自分としてはこの写真が気に入っていたのだが…。


 

 

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