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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年9月23日


連休の中、今日は千葉まで出かけて、我らが『荒木町ハッピークラブ』のポスター撮影。撮影は、昨年と同じく、二石トモキさん(http://www.futaishi.com/)。最近、注目のピアニスト、木下航志氏(http://www.kishitakohshi.com/)の写真も撮っている実力ある写真家である。
昨年もポスターを二石さんに頼み、非常に評判が良かった (http://www.liberdade.com/tazaki0612.html)。
この時は、会場となった荒木町の『オブラディ』の 前で撮影したが、今年はさらに力を入れ、車を借りて、ロケに出かけることにした。
というのも−−。
今年、荒木町ハッピークラブは、本拠地新宿荒木町から銀座に進出。11月25日(日)に銀座TACTで ライブをすることになっている。
ポスターのできあがりが楽しみ。まず、ここで公開したいと思っている。



 

 

 

2007年9月19日


原宿のTOKYO HIPSTERS CLUB(http://www.tokyohipstersclub.com)で行われた画家の下田昌克の個展のオープニングパーティに出かけてきた。
今回展示されている絵のうち、キューバとリオ・デ・ジャネイロのカーニバルについては一緒に出かけたものだったので、懐かしく思えた。

下田昌克と初めて出会ったのは、99年の夏のことだ。
当時、僕は小学館の社員で、『週刊ポスト』のグラビア担当の編集者だった。『いちげんさん』というデビッド・ゾペティ原作の映画を一般公開に先駆けて、京都の映画祭で上映していた。映画の中で、鈴木保奈美が脱いでいるという。男性週刊誌としては、その映像が欲しい。ただ、映画配給会社は、そこだけに焦点を当てられるのを嫌がり、映画のスチール写真を貸し出してくれなかった。
そのため、会場で隠し撮りをしようということになった。もちろん他の競合誌も同じようなことを考えるはずだった。関西在住の記者が、すでに入場を断られたという連絡もあった。
中吊りと表紙のタイトルに「鈴木京香ヌード」という文字が入ればいい。写真が駄目な場合、絵で映画のシーンを再現しようということになった。
ところが、そうした絵を描いてくれる人を僕は知らなかった。知り合いのデザイナー、前橋氏に相談すると「その仕事に向いているかどうかは分からないけれど、君と合うと思う人間がいるから、紹介するよ」と言われた。
それが下田昌克だった。

同じ年、そして同じ関西出身、住んでいる場所も近いことが分かった。僕たちは、京都に向かう新幹線の中で、話し込むことになった。
前年に一年間の南米放浪から帰国し、周囲には話していなかったが、年末に退社するつもりでいた。絵描きとして生活することは難しい。最近ようやくアルバイトをせずに絵だけで食べていけるようになったという下田の言葉を聞いて、退社の後の生活の肌寒さを少し感じた。
ベクトルは違うのだが、社会にすんなり溶け込めないところは共通していた。僕たちは、京都に着くまでにすっかり仲良くなった。
二人とも週刊誌を連想させない気楽な格好だったため、会場の入り口で止められることもなく、前方の席に座ることができた。これならば隠し撮りもできると僕は隣に座っていた下田に囁いた。
「でも写真を撮られると僕の仕事がなくなってしまうから」
結局、僕は鞄からカメラを取り出さなかった。二人で東京に戻り、下田はヌードの場面を再現した絵を描いた。
しかし−−。
絵で再現するのはやはり、無理があると企画ごと没となってしまった。
それから付き合いが続いている。30才を越えてからも、いい友達ができるものだと最近つくづく思う。 今から考えれば、下田はヌードシーンの再現には最も不向きな画家の一人だろう。しかし、そんな仕事から付き合いが始まるとは、人の縁とは不思議なものだ。

下田の個展は10月3日まで。下田は一枚を書くのに早くて三十分、遅い場合は二時間近く掛かる。それだけの集中的に力を振り絞って描いた作品に対峙して欲しい。枚数も多いので見応えがある。原宿に行く機会のある方は是非。


リオのカーニバルにて。書き上げた絵と共に記念撮影する下田。
会場で、下田から写真家の藤代冥砂氏を紹介してもらった。彼も同じ学年だ。
同年代で気になっていた人間と会えたことは嬉しかった。


 

 

 

2007年9月11日


本当は先週の木曜日に名古屋から戻るはずだった。ところが、台風が直撃し、一日東京に戻るのをずらさなくてはならなくなった。金曜日早朝、名古屋駅に行くと、人が溢れ、列を作っていた。結局、もう少し時間を潰し、戻ったのは金曜日の夜になっていた。
名古屋では、大会を取材し、夜は田場裕也や東俊介たちと、酒を飲み、様々なことを話した。その合間に書かなければならない原稿もあったので、東京に戻った時には疲労困憊だった。とにかく濃い一週間だった。

このハンドボールの五輪予選について書いた記事がインターネット上に掲載されている。

http://sports.nifty.com/sportiva/clm_other/new.jsp

http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=7557

しばらくは穏やかに、原稿を書いて生活しようと思っている。しかし、いつもその通りにはいかないのだが。



 

 

2007年9月4日


豊田市で行われている、ハンドボール男子の北京オリンピック予選の取材ため、先週の土曜日から名古屋に滞在している。
残念ながら、昨日日本代表はクウェートに敗れてしまい、五輪出場権を得ることができる、一位通過が遠ざかってしまった。
NHKのBSが中継していたので、試合を見た人も少なくなかっただろう。日本代表は良く戦ったが 、ミスもあった。力不足で負けてしまった、ように見えたかもしれない。今回の予選のレポートについて、sportivaのweb版や、http://www.ninomiyasports.com などで書くことになっている。
それとは別に、この豊田市の体育館で起こった、極私的な出来事を書いておくことにする。

ハンドボールはコンタクトスポーツである。ルールの取りようによっては、解釈の幅はかなり大きい。時に、身体をぶつけた絶妙なディフェンスは、審判によってはファールと判断されることもある 。
審判に判断の幅を与えられているスポーツこそ、スポーツの原点である公平性が最も問われると言ってもいい。
昨年、クウェートは、バンコクで行われた世界選手権のアジア予選で、露骨に審判の笛を操作して、ハンドボールを知らないタイの人間からも、罵声を浴びた(http://www.liberdade.com/tazaki0602.html)。ただ、クウェートは弱いチームではない。恐らく、 普通の“笛”で試合をして、日本とはほぼ互角の力がある。
この試合の前半、審判の笛はややクウェート寄りではあったが、誤差の範囲内と言ってもよかった 。前半を終わって同点、勝負は後半に持ち込まれた。
後半はイラン人審判たちの芸術ともいえる、“見事な”試合だった。
ハンドボールに詳しい人間であれば、この競技の審判基準に幅があることを知っている。許容範囲内に見える誤差に見える双方のファールであるが、そのファールを与える時間帯の重要性が全く違っていた。
簡単に言うとこういうことだ。
五点差まで開くと、クウェートのファールをとって、日本に勢いを与えた。三点差になると、日本の勢いを止めた。
日本は、勝負のあやとなる瞬間でファール、もしくは退場者を出した。その後、点数差が四点程度離れ、試合が落ち着いている段階で、クウェートは、同じように退場者を出し、一見公平なように見せた。
後半、日本がクウェートに詰め寄ったのは二点差までだった。イラン人審判を見ていると、偶然の突発的な出来事で試合が変わる、一点差までは近づけないという強い意志が感じられた。そして、最後は、二点差。一見僅差で試合を終えた。

試合終了間際、クウェートの選手がレッドカードで失格処分になった。失格処分になると、コートの脇にあるブースに入って、試合終了後のドーピング検査を待たなければならない。素晴らしいディフェンスをファールと判断され、失格になっていた永島は静かにブースの中で座っていた。ところがこの失格になったクウェートの選手は、日本の関係者に連れられてブースの近くまで行ったが、「ここで試合を見てもいいだろう」とコートサイドに立ち、中に入ろうとしなかった。
バンコクの時と同じようにクウェートの選手は規則を守る気はなく、それを厳しく罰することがで きない、日本の運営を軽んじているのがありありと見えた。
その選手は僕の前に立とうとしていので、日本語で「早く中に入れよ」と怒鳴った。
すると、すでに退場になっていた選手が、血相を変えて、ブースの中から飛び出してきて、僕の前に立ち英語で言った。
「お前、あいつに何と言ったんだ」
僕は、手を上に上げて指をすりあわせた。
「お前たちは審判にいくら払ったんだ、と言ったんだよ」
選手は、思ってもいない返事だったのか、悔しそうな顔をしてきびすを返した。
試合終了後、僕とその選手のやり取りを見ていたのだろう、韓国の関係者が僕のところにきて、ペ ットボトルを投げる振りをして、目配せした。
その男には見覚えがあった。バンコクで韓国がクウェートとの試合で、不利な判定をされているのに怒り、飲み物をコートの中に投げつけて試合を止めた男だった。
あんな試合をされて、どうしてペットボトルを投げたりして、抗議しなかったのだという意味だったろう。
「クウェートの奴らは、気が狂っている」
コートサイドで試合を見ていたUAEの選手は、僕と目が合うと、顔をしかめ た。

あの試合を見て、審判が操作されていると憤った人間は少なかったかもしれない。ただ、アラブの “定石”を知っている人間は、どんなに巧妙であっても、操作されていることを見抜いていた。
そしてこう思っただろう。
西アジアの審判たちは、試合を操作する“腕”を上げている。今後ますます厄介になる、と。



 

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