1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。 |
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2008年1月30日
ここ数日は、単行本の書き下ろしを中断して、毎日ハンドボールの取材のため、代々木体育館へと足を運んでいた。
残念ながら、ハンドボールの日本代表は男女ともに北京への出場権を獲ることができなかった。
今回の再試合に関して、様々な取材を受けた。
テレビでは、「スーパーJチャンネル」(テレビ朝日系)と「ピンポン!」(TBS系)。雑誌では、「週刊プレイボーイ」(集英社)、「フラッシュ」(光文社)などなど。
しかし、話すよりもやはり自分で書いた方が楽だ。
宮崎大輔を中心にして「週刊ポスト」(小学館)、「スポルティーバ」(集英社)、「日経ビジネスアソシエ」(日経BP社)で原稿を書いている。
他には、いち早くハンドボールを取り上げてくれた「スポーツコミュニケーションズ」で今回の試合についての記事を書いている。ハンドボールでこんな風に盛り上がるなどとは、全く思わなかった。
普段から努力をしている選手たちに光が当たるのは本当に嬉しい。
2008年1月19日
昨日から、佐世保に来ている。月曜日に佐賀から東京に戻り、再び土曜日に九州に来たことになる。
今回は「週刊ポスト」の取材である。僕はこれまで一度も長崎県に来たことがなかった。ただ、佐世保は元々軍港であり、僕が以前住んでいた舞鶴に少し似ている。
港のある街は、どこか垢抜けている、といつも思う。佐世保は、パチンコとカラオケ、コンビニに占拠され個性を失っている地方都市とは一線を画していた。
特に気に入ったのは、「佐世保バーガー」だ。昨日、飲んでから食べた、「ブルースカイ」のハンバーガーは非常に美味だった。聞くところによると、パンズとパテ、野菜の重ね方にも工夫があるとい う。確かに肉汁と野菜の絡み方が絶妙だった。
あるチェーン店のハンバーガーショップが佐世保に進出したが、撤退したという。確かにこの街のハンバーガーを食べ慣れた人間を満足させるのは難しい。今晩の飛行機で東京に戻る。もう少しゆっくりしたいと思わせる街である。
フェリーで黒島へ。黒島天主堂にて。
2008年1月14日
昨日から佐賀で行われているハンドボールの日本代表合宿に来ている。今回は、宮崎大輔を中心に日本代表を書くことになる。
大輔とは、一緒に食事をしたり、馬鹿話をしたりしていたが、きちんと話を聞くのは久しぶりのことだ。
僕は大輔に対しては、厳しい評価をしてきた。二年前、大崎との契約が切れた時に、欧州へ行くべきだと僕は思っていた。
彼のような高い能力の選手は、高いレベルで揉まれないとさらに上のステージに進めない。超一流と一流の差は、一流と二流の差に比べればごくわずかなものだ。ちょっとした差の積み重ねが、超一流への壁を越えることができる。
大輔のレベルはすでに日本リーグの枠を大きく越えていた。それでも居続けるということは、彼が現状に満足しているのだと残念に思ったのだ。
そして、ここ二年ほど大輔のパフォーマンスは、それほど良くなかった。どうして此処にいるのだろうともどかしく感じていたのだ。
大輔は、自分の密かな努力や苦労を言いたがらない。今回、じっくりと話を聞いて、彼が、自分一人で孤独に試行錯誤し、追い込み、限界を超えようとしていたことが分かった。超一流の壁を、日本にいながら越えようとしているようだった。
今回の取材は 『Sportiva』 (スポルティーバ 集英社)の来月発売号に掲載される。五輪やり直しで勝ち、すっきりと原稿を書きたいものだ。
昨年末の全日本総合にて。
明日は、東京に戻り、テレビ朝日の『スーパーJチャンネル』に出演する。最近、ハンドボールのことについて取材を良く受ける。どうしてこんな問題が放置されていたか、と−−。ハンドボールは見るのに非常に技術のいる競技である。あの豊田で行われた日本対クウェートの試合で、審判の操作が行われていたことを見抜いた人は、ごくわずかだっただろう。ハンドボールを大学の高いレベルでやっていたとしても見抜けないほど、審判は巧妙だった。だから、負けた言い訳ととられたくないから選手は声を上げなかった。中東勢が、あの大会でミスをしたとすれば、韓国対クウェート戦で露骨に「中東の笛」を吹きすぎたことだろう。それだけ韓国が強かったという証左になのだが。
2008年1月8日
昨日、新幹線に乗って京都へ。まずは金閣寺と嵐山を回った。僕は京都で生まれたが、あまり良く知らない。金閣寺に行くのは十数年ぶりだ。
日本風の旅館に泊まり、みなはご満悦だった。
ここ数日、酒を飲みながら、みなと色々と話をしている。
クリストフとピエールの会社は、ハンドボールのモンペリエのスポンサーになっていた。彼らの会社は、世界中に支社があるが、特に欧州で強い。モンペリエのハンドボールチームはバルセロナFCやシウダーレアルなどと並んで世界の五本の指に入る強豪だ。ハンドボールのチャンピオンズリーグでは何度も優勝している。欧州の舞台で試合をしているハンドボールチームは、欧州で仕事を展開している彼らの企業にとって格好の宣伝になるのだという。
クリストフはニームにいた田場裕也のことを知っていた。彼はどこに行ったのだと僕に尋ねた。
「今、沖縄でハンドボールクラブを始めた」
「引退したということかい?」
「正確にはそうではないけれど、今はプレーしていない」
僕が答えると不思議な顔をした。
こうした話になると僕は複雑な気持ちになる。
田場はフランスのハンドボール界では名前が知られていた。ただし、欧州のハンドボール界では名前が知られているとはいえない。ニームはそれほど強豪のクラブではなかったからだ。モンペリエのようなクラブで欧州を舞台にプレーしていたとしたら、また違う道が広がっていただろう。
欧州でプレーするには、プレーの質はもちろんだが、同僚との付き合い、言葉などの一般生活の障壁がある。日本で最も才能ある選手の一人、宮崎大輔はハンドボールの力量では、欧州で楽に通用するだろう。かつて彼はスペインに留学していたが、今は日本の生活に慣れている。その点ですぐにプレッシャーの厳しい欧州の有名なクラブで力を発揮するのは難しい。
田場の場合は、欧州の生活に慣れていた。彼の大ざっぱな性格はフランスに合っていた。だからこそ、もっと力のあるクラブに移籍すべきだと僕は思っていたのだ。
ここのところ、五輪予選やりなおしの件でハンドボールが毎日メディアに取り上げられている。その中に田場が関わっていないのは寂しく感じる。
さて。
今日は清水寺を見に出かけたが、参道に並ぶ土産物屋に次々と入り、全然進まない…。土産物の婦人は「最近買うてくれるのは外人さんばっかり。日本人はこまいものしか買わへんわ」と言った。日本の経済力が弱っているのをここでも感じた。
今年は写真を撮る機会が増えそうだったので、シグマの18-200_の手ぶれ補正付きのズームレンズを買った。写真の師匠の一人である、横木安良夫氏は、単焦点のレンズを使い、その距離感を身体にまずたたき込むことが大切だと言った。僕はその教えを忠実に守り、銀塩の時は、GRで写真を撮り続けていた(たまに50_レンズをつけたA−1)。デジタルになってズームレンズを使うようになったが、例えばムンバイでは40Dに10-20_の広角ズームをつけ放しにしていたが、一番広角の10_でほとんど固定していた(銀塩レンズに換算すると、16_程度。GRよりもワイドで心地よい )。小笠原やムンバイで太田さんが使っていた18-200_のレンズが欲しくなり、悩んでいたが結局買うことにした。これだけ様々な距離で撮ることができるとかなり楽だ。
2008年1月4日
広山選手の結婚式のため、フランスの友人たちが昨日到着した。今日はみなを連れて、秋葉原へ買い物に出かけることにした。
今、ユーロは非常に強い。フランス人にとってはかなり安く感じるのだろう、デジタルカメラなど様々なものを買っていた。
昼食の時間となった時、マニュエルが「どうしても寿司が食べたい」と言い出した。
マニュエルは僕がしばしば欧州に行った時にサッカーをしている、「モンペリエ・スポーツクラブ」の一員である。元々モンペリエで「10番」をつけてプレーをしていた。ボール扱いはかなり上手い。彼の手引きで、僕は「モンペリエ・スポーツクラブ」に入ることができた。
僕のフランス語はかなりうまくなったものの、まだきちんと意思疎通するのは難しい。マニュエルは、両親がスペイン生まれでスペイン語を完璧に操る。彼が、スペイン語を話す僕と他のフランス人たちとの「通訳」をしてくれていた。
僕は、秋葉原から近い神田でそばでも食べようかと思っていたのだが、マニュエルはどうしても寿司が食べたいと言い張った。仕方がなく、電気店の店員に回転寿司の場所を聞いて、行くことにした。
ところが−−。
今回来日したのは、マニュエル夫婦、IT系企業であるネティアCEOのクリストフ夫妻、クリストフのビジネスパートナーであるピエールと恋人の三組。寿司屋に入ってから、ピエールの恋人は、生ものが苦手であることが分かった。
どうしょうかと困っていると、ピエールは「気にしなくていい」と言った。気がつくと、ピエールと恋人の姿が消えていた。しばらくして帰ってくると、手に紙袋を持っていた。近くのパン屋でサラダとパンを買ってきたのだという。
店の中では食べない方がいいよと言ったのだが、かなり空腹だったのだろう、彼女はそっと食べ始めた。店員は、見て見ぬふりをしてくれていた。
旨いと言って、食べ続けているマニュエルとクリストフを見ながら、これがフランス人なのだと僕は苦笑いした。
日本人の感覚からすると、みんながマイペース。僕もマイペースと言われることが多いが(自分ではそう思っていない)、フランス人の中に入ると相当協調性がある方だろう。
KYなんて言葉があったが、フランス人はみんなそんなものだ。もちろん、彼らなりの気遣いがあるのだが、とにかく自分のやり方にこだわる。
そんなフランス人には、頭に来ることもあるが、楽なところも多い。
来週、彼らを連れて京都に出かける。珍道中になりそうで楽しみだ。
今年の年賀状の候補の一つ。昨年のリオのカーニバルの写真である。
最後まで迷ったのだが、カーニバルの写真は以前も使ったので(2006年1月)、
インドの写真を使うことにした。
2008年1月1日
謹賀新年
将来どんな職業に就こうかと、最初に考えたのは、小学校低学年の時だった。
その時、僕がなりたかったのは、詩人だった。ただ詩人になるにはどうすればいいのか、分からなか ったので、哲学者に志望を変えた。もちろん、哲学がどのようなものかは理解していなかった。哲学者という言葉の響きが格好いいと思っていたのだろう。哲学者になるには、地元の京都大学の哲学科に進めばいいとも思ったのだ。
その後、小学生高学年の時には、作家になろうと思った。一応、その望みは叶っている。自分のなりたかった職業に就ける人間の数は限られている中、僕は恵まれているともいえる。
ただ、自分が考えてた物書きの像とは、まだずいぶん違う。今年はそこに近づけますように−−。
今年の年賀状は、インドのムンバイで撮った写真を使用した。
タージマハールホテルの前の船着き場の夕暮れ。