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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年12月30日


今年も残り二日になった。
振り返ってみると、今年もずいぶん色んなところに行った。1月のドミニカ、ブラジル。2月はブラジルからトルコ。5月から6月に掛けて、スペイン、ブラジル、そしてアメリカ。7月末には中国、11月にはインド。国内では沖縄、小笠原にも出かけた。
仕事面で悔いが残るのは、今年は一冊も単行本を出すことができなかったことだ。来年はその分を取 り返そうと思っている。単行本を含めた、年明けのスケジュールも決まりつつある。
来年、僕は四十才になる。
ここ数年、一生でどのくらいの仕事を残すことができるのかと考えるようになった。 2000年に出版社を辞めた時、やりたいことを色々と考えていた。そのほとんどをまだ僕は世の中に出 していない。自分のやりたいことのうち、数パーセントしか実現しておらず、焦りを感じることもあ る。もちろん、一歩一歩、着実に進んでいくしかないことは分かっているのだが。
来年は今年以上の年にしたい。そう強く思っている。

 

ムンバイの漁村にて。
浜辺は異臭がした。少し離れたところでは、男たちがしゃがみ込んでいた。よく見ると、ズボンをおろして用を足していた。 「ここで小便、大便をしないように」と書かれた、大きな看板が倒れかかっていた。市当局の意向は見事に守られていなかった。


 

 

 

2007年12月24日


僕の目が悪くなり始めたのは、中学生の時だ。ピンク映画専門の映画館の並びの薄暗い古本屋に、部活の後良く通った。ビニール袋に包まれた“ビニ本”と漫画がずらりと並んでいたかび臭い店だった。そこで僕は、薄暗い灯りの下で、ページの端が変色した「男一匹ガキ大将」など古い漫画を読みふけっていた。
高校時代は一日一冊以上のペースで、本に浸り続けたことで、僕の近視は決定的になった。
そこから僕はずっと眼鏡、あるいはコンタクトレンズで生活している。
特に不便を感じるのは、国外に滞在している時だ。
テロリストを取材しにいった ペルーのジャングルの中、アマゾン川の船の上、キューバのすし詰め列車、スペ インからモロッコに渡るフェリーの中−−。身軽で動きたいのだが、コンタクトレンズを使用していると荷物が増えてしまう。
最近は機内持ち込みの液体検査が厳しくなったこともあり、近視矯正手術を受けることを考えていた。ただ、術後一週間はアルコールが禁じられること、一ヶ月は様子をみるために国外に出られないということで、なかなか手術が出来る機会がなかった。
ようやく、先週、手術を受ける気になったのは、来年、再来年とまたハードに世界を動き回ろうと思ったからだ。
手術台に上った時は、デビッド・ボウイの映画「地球に落ちてきた男」を思い出した。
手術自体は、拍子抜けするほど、すぐに終わった。
問題は術後だった。
12月は酒の席が多い。二宮清純さんの事務所主催の忘年会には出席したが、ウーロン茶で過ごした。最も辛かったのは、六本木のバーで桑名正博さんたちが、内輪で開いたライブを見た時のことだ。桑名さん、「月のあかり」の作詞者でもある下田逸郎さん、斉藤ノブさんという豪華な三人の演奏だった。日本で最も好きなボーカリスト&ギターリストの一人である桑名さん、誰もが認める日本で最高のパーカッショニストの斉藤ノブさん、そして下田さんの木訥として、味のあるボーカルは初めて聞いたのだが一遍で好きになった。いい音楽を聴くと酒が飲みたくなるものだ。その気持ちを押さえるのが大変だった。

そして、今日、術後一週間を過ぎた。
本来は酒が飲めるはずだったが、まだ炎症が少し残っているというので、まだ止められている。美酒まで、あと少し。
両目1.5の視力を得たが、代償も大きかった。

 

昨日今日と駒沢体育館まで、ハンドボールの全日本総合ハンドボール選手権に出かけていた。決勝は大同が大崎を大差で下した。決勝らしい緊迫した試合だったかどうか、には不満もあるが、末松誠の出来は素晴らしかった。同期の宮崎大輔の陰に隠れがちだが、今や日本のエースと言ってもいいだろう。

準決勝の大崎対湧永の試合で光っていたのは、猪妻正活だった。豊田市で行われた五輪予選に呼ばれなかったことは、彼にとっては屈辱だったろう。今回、やり直しとなる五輪予選の代表候補に復帰した。彼の能力はもっと評価されてもいい。
今日の代表候補発表で、嬉しい驚きだったのは、トヨタ車体の野村広明の名前があったことだ。野村は代表の重みを深く知る男だ。野村や岩本真典、山口修、そして中川善雄、アジアでの戦いを熟知した選手たちと、若い選手たちが融合することを楽しみにしている。


 

 

 

2007年12月19日


ハンドボール界で「中東の笛」と言われてきた、中東の国々(及び韓国)による、審判操作のことを初めて聞いたのは、フランスで元日本代表の田場裕也と会った、03年11月のことだった。 ニームにある彼の自宅で、ワインを飲みながら、試合の途中に王族がコートに降りてきたり、審判が交代させられることがあると田場は話した。審判の操作というのは、アジアのサッカーでもあった話ではあるが、それが21世紀になった今でも、存在していることに驚いた。
いや、正確にはその時は半信半疑だった。
実際に「中東の笛」を見たのは、昨年の二月のことだった。
単行本「W杯三十年戦争」の書き下ろしの缶詰がてら、軽い気分でバンコクに出かけていた。世界選手権出場権をかけた大切な試合で、明らかに審判は、偏った笛を吹いていた。ほとんど観客のいないスタンドで僕は憤り、身体が熱くなった。こうした不正が横行していることを僕が知らなかったこと 、日本で全く報じられていなかったことにも、怒りを感じた。
週刊田崎 2006年2月

『VS.』 (月刊バーサス、光文社) 2006年04月号にも以下のような記事を書いた。
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審判の「買収」に泣いたハンドボール日本代表。
「バンコクの悲劇」を繰り返すな!
文/田崎健太

勝負とは繊細なものだ。些細なプレーで試合の流れが一気に変わることもある。それが人為的に、そして断続的に起こされたとしたら、それに抗うことは難しい。
2月にバンコクでハンドボールのアジア選手権が行われた。日本代表はフランスでプレーする田場裕也、年始の肉体バラエティ番組で、アスリートナンバーワンとなった宮崎大輔などを揃え、優勝を狙える力があると考えられていた。
初戦のイラン戦、日本代表は立ち上がりこそ動きが固かったが、次第に本来の力を発揮し、前半を1点リードで終えた。
しかし、後半が始まると試合の様子が一転した。ハンドボールはある程度のボティコンタクトは許されている。時にファールを覚悟で相手を押さえることもある。判定には幅があると言ってもいいが 、この日UAEの審判の笛は「幅」とは言えなかった。
日本がイランの選手にぶつかると反則になった。一方、3秒、3歩しかボールを持ってはいけないはずだが、イランの選手にはそれは適用されなかった。反則には2分間退場というルールがある。些細な反則で日本の選手は退場させられ、一人復帰する度にまた一人と退場させられた。守備に力を割いていた田場を含めた二人がレッドカードでコートからも退場させられた。明らかに審判は“買収”されていた。宮崎大輔は、反則を取られないように遠目から何本もシュートを決めた。だが、後半のほとんどを一人少ない選手で試合することになり、選手たちの動きは次第に鈍くなっていった。日本は3点差で敗れた。
石油を産出し、懐の豊かな西アジアの国を相手に日本が不可解な笛を吹かれたのは初めてではない。
あまりに露骨な「行為」に日本ハンドボール協会副会長である市原則之はIHF(国際ハンドボール連盟)の理事会に動議を出そうとしたことがあった。
「アジアでの試合では不誠実な笛が横行している。欧州など第三国の審判を使うべきだ。オリンピック連盟に提訴することも考えている。このままだと五輪競技から外される可能性もあるだろう」
しかし、この動きを事前に察知した、エジプトのハッサン・ムスタファIHF会長は市原の動議を強引に押さえ込んでしまったのだ。
国際大会では通常、ファール数、得点が記されたマッチレポートが発行される。ファール数を見るだけで不正な試合かどうかがすぐ分かる。しかし、この大会では一切マッチレポートは出なかった。
ハンドボールはマイナースポーツである。マイナースポーツにとってオリンピックに出るか出ないかというのは競技の存亡に関わる。日本の選手たちは自分の人生を左右する試合で、不可解な笛に泣いてきた。北京五輪予選が来年予定されている。選手たちのぶつけどころのない悲しみと怒りを繰り返してはならない。
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そして、今年の九月。
愛知県の体育館、日本の本拠地で、彼らは厚顔無恥にも同じ事をやった。日本は完全になめられてお り、毅然とした態度をとらなければならない、そんな話をハンドボール関係者とした。
週刊田崎 2007年9月
http://sports.nifty.com/sportiva/clm_other/85.jsp
http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=7557

そして、昨日。
IHF(国際ハンドボール連盟)が、男女のアジア予選のやり直しを命じた。僕自身も想像していなかった結果だった。
協会の市原さんたちの働きかけがようやく実を結んだ形になる。

もちろん、五輪のアジア枠はただ一つ。明らかに韓国は日本よりも力がある。予選で二位に入れば、 世界最終予選に回ることができるが、ハンドボール先進国である欧州の国々に混じって、勝ち抜くこ とは相当難しい。アジアで勝たなければならない。

ハンドボール界では何かあると“協会”のせいにする習癖がある。
協会は結果を出した。
次は選手の番だ。


昨年2月、バンコクでの世界選手権アジア予選にて。


 

 

 

2007年12月10日


黄色く色づいた銀杏の落ち葉を踏みしめて歩くのは悪くない。散歩しながら、冬の乾いた空気を肌に 感じることも嫌いではない。そして、暖かい鍋の湯気で、窓硝子が曇るのを見ると、軽く幸せを感じる。
ただ……寒いのは苦手だ。
普段、家の中に閉じこもって仕事をしているため、病気に対して免疫が少ないのか、風邪を引きやすい。インドから戻ってから一週間、風邪とはまではいかないが咳が止まらない。やはり僕の身体は暖 かい場所に向いているようだ。
しかし、残念ながらしばらくは寒い東京に止まることになりそうだ。来年発売の単行本などなど、頑張って原稿を書かなければ−−。


先月の「荒木町ハッピークラブ」のライブ写真。
撮影は二石(トモキ改め)友希氏(www.futaishi.com/)。
今日から今月二十二日まで、渋谷のnadarで二石さんの個展「ミ・タ・ト・タ・ン 」をやっている。僕も顔を出すつもりだ。興味のある方は是非。


 

 

 

2007年12月2日


前略
今朝、インドのムンバイ出張より無事に帰国しました。三十度を超えていたムンバイからいきなり寒い日本に引き戻される、と思っていたのですが日本も意外と暖かく感じられます。
インドでは、一度、腹痛を起こしたものの、それ以外は快調に取材を終えることができました。
ムンバイの地を踏むまでは、急速に変貌した中国のようなイメージを持っていました。大学生の時に、カルカッタ、ヴァラナシと三週間ほどインドを旅したことがあります(ほとんどはヴァラナシに滞在し、シタールという楽器を習っていました)。実際のインドは中国とはずいぶん違っており、かつて感じた目眩するような混沌は相変わらずでした。
ただ、変わったと感じたのは、若く優秀な人間たちが、国の将来に明るい共同幻想を抱いていることでした。昔の日本はこうであったのだろうと、日々閉塞感が強くなる日本と引き比べて、思わず腕組みしてしまいました。
今回のムンバイ出張は年明けの「週刊ポスト」(小学館)のグラビアに掲載予定です。
取り急ぎご報告まで。



 

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