1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。 |
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2009年3月30日
帰国してからは、ハンドボールプレーオフ、早稲田大学でフォーラムの司会、そして先週は『dancyu』の取材で関西出張。
ダンチュウには、「食の革命家たち」というノンフィクション連載があり、そこでパン職人のビゴさんのことを書く。再来月に掲載予定。
きちんと取材をして、ある程度の分量の原稿を書ける、ダンチュウのようなメディアは貴重である。
フランス人のビゴさんはルマン生まれ。僕は松井選手の取材で何度も街を訪れたことがある。街の空気を吸ったことがあるかどうかは、直接書かないにしても、できあがった原稿の厚みに大きく関わってくる。
ノンフィクションにとって取材は、作品の泉である。出版不況でその「泉」までたどり着く交通費まで渋るようになってきた。他に切り詰めるところがあるだろうとは思うのだが。
理屈に合わないお金の使い方をしている業界や企業は、衰退していく。これは理にかなっている。
話は変わって、シンクロスケート。
スポーツナビに「グレース」のことが取り上げられた。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/winter/skate/figure/text/200903270009-spnavi.html
まだ人数は集まっていないが、練習見学したいという選手は増えている。焦る気持ちはあるが、少しずつ、である。
来月、世界選手権がクロアチアで行われる。星野コーチと選手たちは、スウェーデン代表チームに帯同している。彼女たちが、世界一のチームから様々なことを吸収して戻ってくれることを楽しみにしている。
芦屋の「ビゴの店」のパン教室にて。
2009年3月18日
元々の予定ではインドから日曜日の早朝に戻るつもりだった。
ハンドボールのプレーオフの準決勝は土曜日だった。今季限りの引退を決めていた大崎電気の東俊介にとっては負けた時点で、現役最後の試合となる。
準決勝の相手は、湧永製薬。
力的には大崎の方が上だが、湧永独特のチームワークで苦しめられることになるだろう。負けることになると、彼の現役最後の試合を見逃すことになってしまう。そのため、予定を一日繰り上げ土曜日早朝の便に変更した。
インドでは、いつも思っていた通りに事が進まない。そんな余韻を残したかのように、到着寸前、嵐のため機体は激しく揺れた。無事に到着したが、下田画伯は気分が悪くなり、成田空港でしばらく休むことにした。
昼過ぎに都内へ到着、午後から駒沢体育館に行くことにした。
大同と車体の試合は、予想通り大同が押していた。白元浮ェベンチに退くと、車体が盛り返したが、力の差は歴然だった。
続く大崎と湧永の試合で、楽しみにしていたのは東長濱秀作のプレーだった。実業団の時に、沖縄で飲んだことがあったが、田場裕也に通じる生意気さがあった。しかし、彼の悪い癖だが、気合いが空回りして自滅した。このままだと、彼は永遠に「いい選手」になれず「面白い選手」で終わってしまう。
それでも、湧永はしつこく食い下がった。昨年引退した下川や監督の山口がコートに立っていれば、スコアはひっくり返っていたかもしれない。
この試合には、アズマが四月から通うことになる、早稲田の大学院の「同級生」が来ていた。担当教授の平田竹男さんから「いつ行けばいい」と尋ねられたのだが、決勝まで進む確信がなかった。そのため、平田先生や桑田真澄さんたちは準決勝を見に来ることになったのだ。
彼らが駆けつけてくれたことが大きな励みになったのだろう、アズマは、試合の節目となる場面で得点を挙げた。五得点の大活躍だった。
そして、翌日曜日の決勝−−。
大同特殊鋼に大崎は一時離されたが、緊迫したいい試合だった。白元浮ヘ体調が良くなかったのか、かつてのような凄みがなかった。それでも試合をまとめるところはさすがだった。
この試合で一番印象に残ったのは、宮ア大輔が、七メートルライン近くで、味方の選手を3人ほど囮に使い、縦に切れ込んで決めた素晴らしいシュートだった。
宮アはジャンプ力を生かしたシュートが目立つが、幾ら高く飛んだとしても身体の小さい彼のジャンプシュートは国外では通用しない。
ボールポゼッションを上げて、スピードで相手をずらし、縦に力強く突破することが必須になる。彼はコートに立ちながら、世界の相手を想定してプレーしていたことだろう。
試合終了後、彼は国外移籍を語ったが、あのようなプレーが一試合で何回も見せられることができれば、充分優勝を狙えるチームでもやれるはずだ。大同が2点差で勝ったが、ハンドボールの面白さが伝わるいい試合だった。
アズマ、お疲れ様!
この大会を最後に、アズマの他、湧永の東(ヒガシ)、坪根たちが現役を引退する。寂しいことだ…。
2009年3月13日
ダラムサラでは、細かなトラブルはあったものの、おおむね順調に取材をすることができた。
計算違いだったのは、毎回寺に入る時、僕だけ厳重に身体検査されることだった。
下田が係官に聞くと「彼は中国人みたいだから」とのこと。寺だけでなく、「中国人?」と聞かれた。この一帯で中国人と思われることは圧倒的に不利なのに…。
大久保の駅前で待ち合わせをしていたら、韓国のテレビ局から韓国人に間違えられて、街角インタビューを二回も受けたことがあるが、今回は中国人だった。
さて。
ダラムサラからデリーに向かう深夜バスの中で、41回目の誕生日を迎えた。誕生日に国外にいることは多いが、バスの中で迎えるのは、初めてのことだ。
古く煤けたバスの、サスペンションはへたっていた。もともと道の凸凹に反応して、ゆらゆらと車体が揺れた。ダラムサラからデリーの道の前半は、細く、曲がりくねった山道を走ることになる。前後左右に車体が揺れっぱなしだった。
また、前後のスペースが通常よりも狭いにも関わらず前からシートが倒れてくる。非常に窮屈だった。
かつてブラジルで、サンパウロからポルトベーリョまで50時間、もっとも安いバスに乗った時でさえ、眠ることができた。ところが今回は、ほとんど眠ることができず、少し車酔いした。
バカボンのパパと同じ年、41才をこんなバスで迎えるとは思わなかった。
今日の夕方の飛行機で成田に向かう。2泊連続して、ベッドで眠ることができない。41才の春はつらいのだ。
バスは夕方の七時過ぎにダラムサラを出て、朝七時前にデリー郊外のチベット人居住区に到着した。
2009年3月10日
今週から、チベット蜂起五十周年の法要が始まり、この小さな街は熱気に包まれている
2009年3月6日
ダラムサラの街に辿り着くには、つづら折りの山道を登っていかなければならない。
行き交う車はなく、運転手が自慢するトヨタの白い四輪駆動車のヘッドランプだけが前方の土を
照らしていた。運転手は、ラリーに出場するかのように、カーブを駆け抜けた。車内は左右に揺れ、
ドアに数十秒おきに叩きつけられることになった。
ダラムサラに着いたのは朝の五時。デリーを夕方の七時に出た時は、気温が30度近く、湿度があったが、日が暮れると一気に気温は落ちていた。到着した時は、零下近くまで落ちていたはずである。
ダラムサラは、明らかにインドの街とは雰囲気が違っていた。カトマンズ、そして未だ足を踏み入れたことのないチベットを思い浮かべた。山の細い道の両側に、小さな店がひしめき合っている姿は、まさに僕の想像の中のチベットだった。
宿は、ダライラマが逃亡してから50周年ということで、相当混雑していた。それでも、下田が走り回ってなんとか宿を確保することができた。
太陽が昇ると、気温は高くなったが、空気は乾いている。そこにインド特有の土埃、排気ガスが加わっている。少し歩くと、唾液の中に砂が混じっている気もする。
人には心地よい気候がそれぞれある。下田は、この乾いて、涼しい気候が身体にしっくりくるとい
う。僕は、海沿いの暖かくて適度に湿気がある方が好きなのだが。
2009年3月4日
昨晩の東京は冷え込んだ。夜中は雪が舞い、歩いていると凍えた。
特に、暖かい沖縄から帰ってきたせいかもしれない。沖縄の湿度を含んだ、生暖かい空気が懐かしかった。
そして、今日から再び東京を明ける。
出発前はいつものことだが、仕事を片付けるためにほとんど眠れない。ふらふらになりながら、リュックサックを担いで成田エキスプレスに乗ると、空港まで寝ていた。
飛行機の中でも熟睡。デリーに着いたのは予定より約1時間遅れで夕方の七時になっていた。
機内のアナウンスによると、気温30度。再び暖かい場所に戻ってきた。
先にカトマンズへ行っていた下田昌克画伯と、空港で合流した。
翌日のデリーにて