1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。 |
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2014年6月28日
縁とは不思議なものだ。
京成立石の宮田ジムを紹介してくれたのは集英社インターナショナルの手島さんだった。後楽園ホールで行われた宮田ジム所属の粉川君の試合を観に行き、その後、ジムへ遊びに行くことになった。ぼくより一つ年上の宮田会長に、京成立石の名店「鳥房」へ連れて行ってもらい、その日は、鈴木トレーナー、女子ボクサーの水谷智佳選手まで呼び出して飲むことになった。
トレーニングに来たらという、誘いで時間のあるときは月に一回程度、お邪魔するようになった。この日もW杯の原稿〆切の谷間を利用して、教え子の小林遼平、写真家の会田さんとトレーニングに伺い、そのまま鈴木トレーナーたちと大衆酒場回りをすることになった。少し前まで京成立石がどこにあるのかも知らなかった。昭和の風情が残る、懐かしい街で、こんなに楽しく酒を飲むなど想像もしなかった。
猫がたくさんいる宮田ジム
2014年6月15日
書き手としての足腰は、小学館で編集者をしていた二十代に培われたと思っている。
当時の「週刊ポスト」は売れており、「週刊文春」「週刊現代」と発行部数を競っていたものだ。その激しいつばぜり合いは新聞で「週刊誌戦争」と取りあげられたこともあった。スクープを出せば、ワイドショーなどが後追いをした。時代の中心にいるような錯覚に陥ったこともあった。
編集長だった岡成さんを始めとした上司、先輩から学んだこともあったが、それ以上に勉強となったのは、勝新太郎さんや、戸井十月さん、猪瀬直樹さん、一志治夫さんといった外部の方との付き合いだった。
その中の一人に永谷脩さんがいた。
永谷さんとの最初の出会いは、秋山幸二さんが、西武ライオンズからダイエーホークスに電撃移籍したときだった。第一報を目にしたぼくは、ハイヤーで秋山さんの自宅まで行ってみることにした。ぼくが着いたときは他社はおらず、一番乗りだった。玄関のインターフォンを押すと、秋山さんがたまたま出た。
「週刊ポストの田崎と申します。お話を伺いたいんですが…」
秋山さんは少し黙った後、「ポストか……脩さんのところだよね」という返事が返ってきた。永谷さんとは面識はなかったが、とっさに「はい」と答えた。
「それじゃ断れないな。取材は受けるから、広報通してくれる?」
ハイヤーに戻って、車載電話から編集部に電話をして(当時は携帯電話がなかった)、永谷さんに連絡をとることにした。
後は、永谷さんの指示に従って、独占インタビューをとることが出来た。秋山さんに「断れないな」と言わせるとはどんな人だろうと、ぼくは永谷さんに興味を持ち、様々な話を聞くようになった。
あのとき、永谷さんの担当は上司だった福田さん、あるいは後輩の中島だった。ぼくは遊軍的存在で、野球の企画を出すときだけ、永谷さんのお世話になった。
永谷さんとは、ダイエーホークスの監督だった根本陸夫さんの取材にも行ったこともある。『球童 伊良部秀輝伝』の中では何カ所か根本さんの名前が出てくる。癖のある人間を扱う術を知った懐の深い人だった。そんな根本さんと実際に話し、ベンチまで入れてもらったのはいい思い出だ。
球場の食堂で山田久志さんと会ったときには「こいつ、阪急時代のお前のファンだったらしいよ」と紹介してくれた。山田さんは「そうかと」ラーメンとカレーをご馳走してもらった。佐藤義則さんと銀座の「早苗」で飲ませてもらったこともある。球場を永谷さんと一緒に歩くと、色んな人が永谷さんに声を掛けてきた。この人は本当に足を使って取材しているのだと感じたものだ。
永谷さんのご自宅にお邪魔したこともあった。奥さんの手料理で酒を飲み、電車を逃し、泊まることになった。ソファーに横たわると、「お前、よだれ垂らすなよ、先週、イチローが寝ていた場所なんだから」と笑った。
また、ずっと手書きを続ける、永谷さんを「IT化」するために、娘さんと三人で秋葉原にMacintoshを買いに行ったこともある(永谷さんはパソコンに触れず、娘さんのものになった)。
小学館を辞めるときには、真っ先に話をした。その後も時折声を掛けてもらい、食事をご馳走になった。
「球童 伊良部秀輝伝」についても、初期の段階で永谷さんの意見をお聞きした。
今年頭だったと思う、球童の執筆で缶詰になっているとき、「まだ伊良部の本は出ないのか」と永谷さんから電話をもらった。そして、書き上がったらまた飲みに行こうと言って下さった。
出版後の忙しさが終わり、永谷さんに連絡を入れようとすると、体調を崩していると耳にした。先週水曜日、現在の永谷さんを担当の山口と連絡をとり、本だけ先に送ることにした。
すると翌木曜日早朝――。
山口から電話があった。永谷さんの容体が急変して亡くなったという。頭の中が真っ白になり、涙がこぼれてきた。
そして今日、大船で行われた永谷さんの葬儀に行き、最後の別れをしてきた。永谷さんの棺の中に収められた愛用の鞄を観て、涙が出て来た。
未だに永谷さんがこの世のいないことを受け容れられない。何も恩返しできなかったことが悲しい。
向こうの世界には岡成さんも、中島もいる。三人で酒を飲んでいることを願うしかない。