logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年5月23日


ルマンからパリを経由して、ニーム。車で国境を越えて、バルセロナに到着した。バルセロナもまた太陽の光は強い。昼間の気温は、二十八度までに上がっていた。気温は高いが湿度が低いので過ごしやすい。こんないい気候のバルセロナを離れるのは、後ろ髪を引かれる思いだ。
そして、今日、フランクフルトを経由して、東京に到着した。

 


 

 

 

2005年5月17日


パリからTGVで北に向かうと、車窓から見える空がだんだんと曇っていった。日が暮れているのかなと思っていたが、そうではないことに気がついた。雨が降って畑の土が黒々としていた。
パリのリヨン駅で降りた時、半袖の僕は皮のコートを着たパリの人々の中で浮いていた。ニームはもう夏の太陽の光になっていたのに、パリはまだ冬の寒さが残っていた。ニームで過ごしていたように、サンダルを履いてこなかっただけでも救いだった。同じ国とは思えない差だ。
そして、今日パリを出て、ルマンへ。一昨日、この街ではモトGPが行われており、事後テストを行っているのだろう、オートバイメーカーの人がホテルに残っていた。
ルマンはパリとはもちろん、南のモンペリエやニームとも違った雰囲気の街だ。フランスの広さを改めて感じる。

 

 


 

 

 

2005年5月15日


取材で、マルセイユ、モンペリエに出かけて、再び今日ニームに戻ってきた。折角の闘牛祭りを見ないわけにはいかない。
狙っているわけではないのだが、ブラジルのカーニバルといい、その土地の目玉である祭りの時期に滞在することが多い。
ウサム・ニームの選手たちと祭りの雰囲気の中でパスティスを飲み、石造りの円形劇場に向かった。

 

牛はこの後、崩れ落ちるように倒れた。
今回、残念ながら写真を撮ることができなかったが、六月にこの街で行われるハンドボールの大会のポスターが街のあちこちに貼られている。ポスターには、田場裕也選手とキーパーがボールを額で挟んでにらみ合っている写真が使われていた。ポスターは彼のweb(http://homepage3.nifty.com/shunba/cafe49.htm)に載っている。


 

 

 

2005年5月10日


大会が終わり、フランスのモンペリエに移動。そして今日はニーム。闘牛祭りを控えたニームは、交通規制が始まり、観光客らしき人々の数が増えている。
出発前に片付けるはずの仕事が終わらなかったので、しばらくは、南フランスに滞在して、原稿を書くつもりだ。
情報技術の進化により、本当にどこでも仕事が出来るようになった。シンクパッド、Kissデジタル、ソニーのICレコーダーをリモワの鞄に詰めて、彷徨うハイテク・ル・ジタンなのである。

 

ハンドボールのウサム・ニーム所属の田場裕也選手と再会。
青い太陽の下で僕はパスティスを飲む。この不思議な味の酒は、太陽が良く似合う。


 

 

 

2005年5月8日


田崎健太、モンペリエ・スポーツ・クラブの優勝に貢献
【5月8日 リョレト・デ・マル発】
現地で行われているフランス社会人大会で、田崎健太の所属するモンペリエ・スポーツ・クラブが優勝を飾った。
「僕の人生で準決勝と決勝で敗れたことはない」と強気のコメントを出していた田崎選手は、午前中の準決勝では後半途中から出場し、得点に絡むことはなかったが三対一でチームは勝利。午後の決勝、対イストレ戦でも後半途中からピッチに入った。四十代の選手が多く、パスミスが目立ち始めていた。一対零とリードしていたため、田崎選手はフォワードとして入ったが、中盤からの守備を要求された。シュートのこぼれ球を拾って一度シュートしたが、惜しくもキーパーに阻まれた。試合はこのまま一対零で終了。モンペリエ・スポーツ・クラブが優勝を決めた。
田崎選手のコメント。
「個人としては、自分の持ち味を出すことができなかった。ただ、優勝できたのでとても嬉しい。こぼれ球のシュートは、少し余裕を持ってコースに蹴るべきだった。ここが僕とロマーリオの差である。僕の課題がはっきりしました。とりあえず今日はチームメイトと優勝を祝うことにします。応援ありがとうございました」

        ☆ ☆

優勝!
決勝戦は全員でロッカールームに集まり、気合いを入れて、並んで入場した。勝負に対して真剣になるのが、このチームのいいところだと思う。僕は、真剣に遊ぶということをフランス人に学んでいる気がする。

 

優勝カップを囲んで、歌を歌った。
全裸になっているブシェは昨年(http://www.liberdade.com/tazaki0405.html)も紹介した。
かなり大きい企業の御曹司で、かつてはパリ・サンジェルマンでプレーしていたらしいが…。


 

 

 

2005年5月6日


田崎健太、ヘディングで念願の初得点
【5月6日 スペイン リョレト・デ・マル発】
現地で行われている、フランス社会人全国大会で、モンペリエ・スポーツ・クラブ(MSC)の一員として参加している、田崎健太選手(37)が対ベシエス戦で初得点を挙げた。
試合は三チームによる予選リーグ第二試合、田崎選手は、MSCが一対零とリードした前半十五分からフォワードとしてピッチに入った。前半終了間際、右サイドからのクロスをヘディングで合わせてゴール。試合は二対一でMSCが勝利。予選一位で明日の準決勝に進出を決めた。
田崎選手のコメント。
「ベシエスとMSCは共に、四十代の選手が中心で、ほとんどがかつてフランスリーグの一部、二部、三部でプレーしていたという似たチーム。双方優勝が狙えるチームの対戦で、勝利に貢献できて嬉しい。昨日は全くいいボールが来なかったが、今日は何本かいい形でボールが来るようになっていた。ゴール前にスペースを作ってそこに飛び込むという自分の得意な形で得点することができた。昨晩、時差ぼけと嘘をついて、飲み続けるチームメートを振り切って、日付が変わる前に部屋に戻って寝ていたことも大きかった。明日も頑張ります」

        ☆ ☆
MSCで初得点。嬉しさのあまりこんなふざけたメールを友人たちに送ってしまった。
広山選手が、かつてパラグアイに行った時、得点を決めて初めてチームにとけ込めたと語っていた。水準は違うがサッカーというスポーツは得点が全てである。得点をとったことで、試合後の扱いが明らかに違った。僕はようやくチームの一員になれた気がした。

まさに自分らしい得点だったと思う。元々技術があるわけでなく、スピードも年と共に落ちている。今の自分が力を見せることができるとすれば、ポジショニングと状況判断である。
常々、僕は中盤の選手の癖、特徴を見抜くようにしている。彼らがどんなボールを出してくれるのか。その能力に合わせて、動き方を変える。MSCの場合は、スルーパスが少ないが、視野の広い選手が多い。
相手のディフェンスは僕よりかなり身体が大きく、勝てそうになかったので、サイドに開き、時に戻ってくさびになる動きをすることにした。僕の動きをわかってくれたのか、次第にボールがいい形で入るようになってきた。得点に繋がったのは、僕が落としたボールを中盤の選手がサイドからクロスを挙げてくれたからだ。
こんな風に、朝まで話せてしまうだろう。やはり自分はサッカーが好きなのかなと思う。

 

MSCは、毎年この大会に合わせてユニフォームを新調する。
青色がMSC。これは去年作ったユニフォーム。
アマチュアであるがちゃんとスポンサーがついている。


 

 

 

2005年5月4日


サッカーの記事を書くことも多いので、「僕もサッカー好きなんです」とそうした話をしたがる人が多い。ほとんどの場合、僕は「サッカーは仕事で書いているだけで、全然普段は見ないんですよ」と返している。
確かに代表の試合の時に自分でフットサルをしていることも多い。「ああ、今日が試合だったんだ」と人の話を聞いて思い出す程度である。だから、僕の言っていることは間違いではない。
ただ…僕はへそ曲がりなところがある。
僕がスペインへ行くことを聞くと、出版社の担当の一人、K君は「本当に好きですね」と肩をすくめた。
そもそも今回のスペイン行きは、バルセロナを拠点に一ヶ月ほど欧州を取材するということから始まっていた。僕は、フランスでモンペリエ・スポーツ・クラブ(MSC)というチームに入っている。この時期に、バルセロナ近郊のリョレト・デ・マルで行われる大会には、バルセロナに滞在しているだろうから、参加できると約束していた。
ところが、取材のアポイントメントが全く入らない。結局は取材計画を白紙に戻し、他の企画を考えることにした。しかし、そのアポが入らないままスペインに向かうことにしたのだ。
わざわざ草サッカーをするためにスペインに行く−−大人のやることではない。K君が肩をすくめるのももっともだ。
フランクフルト経由でバルセロナ。電車でコスタ・ブラバにあるリョレト・デ・マルに到着したのは、深夜になっていた。

 

リョレト・デ・マルの砂浜。南欧というのは、本当に気持ちのいい場所だ。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.