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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年6月25日


無事に成田に帰国。
飛行機が到着する前、到着地の気温が三十度という表示が出ると、乗客の中からため息が漏れた。南フランスやロスのように気温が高くとも、湿度が低ければ過ごしやすいのだが。
家に着いて、テレビのニュースを見ていると今年一番の暑さということだった。

 

成田エキスプレスの中より。


 

 

 

2005年6月20日


今日、成田からロス、そして車でサンディエゴに到着した。仕事、プライベート合わせて、アメリカ合衆国を目的地とするのは、久しぶりのことだ。 アメリカのことは僕は好きではないが、生まれて初めて長く旅をしたのはこの国だった。青い太陽、そして海を見ながら、オートバイで走ったことを思い出す。 今回は、数日滞在して、アメリカンフットボールの取材をすることになる。サンディエゴは、メキシコ国境に近い。あちこちでスペイン語が聞こえる。僕にとっては心地よい響きである。

 

到着してからインターネット、電話で連絡を取ってもらったところ、サンディエゴのホテルがなぜか満室。いつものように先を考えずに行動するとこういうことも起こりうる。結局、知り合いの知り合いの家に二泊“居候”することになった。気がつくと僕は、人の家に“居候”する達人になっていた。彼は日本人の奥さんを持っていたアメリカ人である。奥さんは亡くなっているが、日本的な生活を今も取り入れている。ホテルの泊まるよりも、面白いことが起こる。


 

 

 

2005年6月15日


『日刊ゲンダイ』で連載をしていることもあるだろうが、最近ジーコに関して良く連絡をもらう。
僕がジーコと初めて話をしたのは、もう十年以上前のことだ。Jリーグが成功の道を進みつつあり、2002年のワールドカップを日本で開催できるかどうかということが話題になっていた。そんな中、僕が働いていた週刊誌では、2002年招致活動の一環としてジーコの連載を始めることになった。そして、僕はブラジルに渡り、彼から話を聞くようになったのだ。
今から考えれば、かなりのお金が動く連載であり、良く入社して三年目の編集部員に全部任せたものだと思う。当時の、男性総合週刊誌は、本当に売れていた。若手に自由と機会を与えるという、活気に溢れていたのかもしれない(勢いに乗って、四年目にはスポーツ雑誌を単発だが、創刊している。その雑誌は惨敗だったが、成功するには「俺に編集長をやらせるしかない」と詰め寄ったこともあった。あんな生意気な人間を周りが我慢してくれたものだと思う)。
彼が話したものを僕が原稿にまとめた連載は、二冊の単行本になった。彼が日本代表監督になった後には、それらの本を追加取材をして、再構成して「ジーコイズム」という本にした。彼には延べで何十時間話を聞いただろうか。彼のサッカーセンターはもちろんだが、自宅のプールサイドで話を聞いたこともあった。
僕のプロフィールを見て分かるように、大学では法学部で、スペイン語ともポルトガル語とも全く関係がない。そもそも第二外国語はドイツ語であった。
元々、ガルシア・マルケスやバルガス・リョサ、ジョルジ・アマードなどラテンアメリカ文学に興味のあったので、スペイン語かポルトガル語を理解できるようになりたいとは思っていた。『反乱するメキシコ』では、アメリカ人であるジョン・リードがスペイン語を覚え、革命軍の中に入っていくことが深く印象に残っていた。
ジーコの取材のためにブラジルを訪れたことは、僕の中にあったラテン言語に対する興味に火をつけ、二十代半ばになって二つの言語を学び始めた。入稿の少ないことで知られていた編集部員ではあったが、週刊誌の編集というのは基本的には暇ではない。深夜、移動のタクシーの中でうとうとしながら、スペイン語の録音を聞いていたことを思い出す。
1997年に出版社を休職して、半年をブラジル、残りの半年で他の南米諸国を回った。それで僕の言葉はだいぶ良くなった。退職後は、二、三週間という単位で、ペルー、ブラジル、パラグアイ、キューバ、スペイン、ポルトガルに滞在したことで、様々な訛りが加わったものの、完璧ではないものの仕事にも使えるようになった。
そう、僕の言葉は、大学や語学学校、あるいは正式の留学で学んだものではなく、ストリートで身につけたものだ。それは僕の誇りでもある。
ただ、ジーコに限らず、僕は取材する時、通訳をつけるようにしている。大切な取材の場合は必ず通訳をつけている。
第一には内容のやりとりに集中したいということがある。僕の評価はあくまで書いたものが面白いかどうかである。英語が出来ることを自慢する“国際派”ジャーナリストがいるが、そんなことは正直どうでもいい。もちろん、言葉はできた方がいいが、できたとしても書いている内容がつまらなければ何の意味もないのだ。
通訳をつけるもう一つの理由は、質問の言い回しに自信がないこともある。日本語でも同じだが、取材の時の尋ねる言葉選びには神経を使っている。相手に失礼がないように、そして真意を聞くにはどのような言い回しをすればいいのか、それは国によって違う。外国語の場合、それは任せたほうがいいと判断しているのだ。
話している内容はだいたい分かっているので、会話のリズムを断ち切らない程度に、気になる部分だけを訳してもらうことになる。 もちろん時に、通訳を挟まずに話しかけることもある。堅苦しくない感じで尋ねるので、その時に面白い話が聞けることもある。それは取材のテクニックの一つでもある。
ジーコについては、色んなところで書いているので、人となりの詳細については割愛するが、愛すべき人であることは間違いない。何より、僕をラテンの世界に誘ってくれた恩人であるのだ。
そして今、僕はフランス語を勉強している。予定では四十才の半ばには、今のスペイン語とポルトガル語程度にフランス語を使えるようになっているはずだ。これはもちろん希望的観測であるのだが。

 

1998年、南米大陸の南部パタゴニアにて、夜明けのフェリー。
南極に近づくと、水は深い碧い色となり、どこか寂しげだった。


 

 

 

2005年6月9日


帰国後の慌ただしさがようやく一段落した。
来週発売の「VS.」(光文社)七月号では、アリーナフットボール、そしてバレーボールの加藤陽一選手の話を書いている。
アリーナフットボールは、アイスホッケーのリンクもしくはバスケットボールのコートを使ってやる八人制のアメリカンフットボールである。アメリカでは、NFLなどの四大スポーツに続く競技として期待されている。そのアリーナフットボールの二部リーグのチームと、日本人のアメリカンフットボール選手を選抜して作った「侍ウォリアーズ」というチームが三月に対戦した。
アメリカンフットボールと言う競技は、競技人口の形がいびつなスポーツの一つである。ほとんどが大学生で初めて卒業と共に終える。野球やサッカーと違って国外とのつながりもほとんどない。そうした状況を打破するために「侍ウォリアーズ」を作った山田晋三君たちの話を書いている。
もう一つはバレーボールの加藤陽一選手。彼とは、昨年ハンドボールの田場選手、広山選手と四人でモンペリエで食事をしたのが初めての出会いだ。当時彼はアルゴ・セテというフランスのチームに所属していた。バレーボールというのは、陽の当たるスポーツだと思っていたので、加藤選手の話は意外なことが多かった。その時に感じた違和感を、改めて取材して原稿にしている。
また、来週火曜日発売の「週刊プレイボーイ」(集英社)では、フランスのルマンで取材した松井大輔選手のインタビュー原稿を書いている。彼と僕は、年はずいぶん違うが同じ京都出身。彼は関西人らしい気さくな性格で、すっかりと話し込んでしまった。
「週プレ」の原稿にも書いたが、国外でプレーする選手が「第二世代」に入ったとつくづく感じた。国外に出たいと、踏ん張った中田英寿選手や広山選手と違って松井選手は、軽やかで自然体であった。自然体でいられるのは、先駆者が切り開いた道があるからであるのはもちろんである。これから彼らのような選手が増えていけば、もっと日本のスポーツ界は面白くなるだろう。
そして、今日は敬愛する、音楽家の松本晃彦 (http://www.rockdom.co.jp/rockdom/matsumoto/)さんがパーソナリティを務めるラジオ番組のゲストに呼ばれたので、収録に出かけてきた。
「Artist Jam Wednesday」(FM PORT)
 と言う番組で、オンエアーは六月十五日、来週水曜日だが残念ながら新潟でしか聞けない。新潟の人は是非、聞いて欲しい。

 

ラジオで掛けるために、好きな曲を三つ選んだ。一曲はプリテンダーズの「ミドル・オブ・ザ・ロード」。これは高校生の時に好きだった曲だ。ボーカルのクリッシー・ハインドは僕の永遠のアイドルでもある。後は、ブラジルの巨匠カルトーラの「沈黙のバラ」とマニュ・チャオを選んだ。


 

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