週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 最新刊は『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。
早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。twitter :@tazakikenta

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2012年08月18日

取材の予定は突然決まるものだ。
月曜日に電話を入れると、急遽水曜日に会うことになった。数日間東京を空けるために、出来る限りの仕事を片付けて新幹線に乗ることになった。
テレビは、この日の午後が盆休みのUターンラッシュのピークとなると伝えていた。その通りで、がらんとしていた地下鉄の駅から新幹線乗り場に近づくと、家族連れの客をかき分けて進まなくてはならなかった。
大阪での聞かせて貰った話はとにかく面白かった。次の単行本に向けて、上々の滑り出しである。
金曜日は野球部の遠征に同行させてもらい岡山へ。試合後、瀬戸大橋を渡って高松に向かった。瀬戸内海に浮かぶ島々が沈む太陽に照らされて、幻想的で美しかった。高松でも愉快で素敵な人たちと出会うことが出来た。
ぼくたちの仕事の楽しみの一つは、こうした様々な人と出会えることだ。この夜も頭がくらくらする程の焼酎を飲み、翌日に高校野球の練習試合を見てから東京に戻った。
この出張の詳細については、また。

取材の合間に新世界を散歩。残念ながら商店街は木曜日が定休日。しばくことはできませんでした。

今度はゆっくりオートバイで回りたい。

2012年08月07日

先週土曜日、無事にロサンゼルスから帰国している。
以下は、『スポーツコミュニケーションズ』の携帯サイト用に書いた原稿に一部手を入れたものである。
帰国する前日、LAギャラクシーとレアルマドリーの試合を観に行ってきた。アメリカに着いてから、フリーウェイを走っていると電光掲示板があり、この試合の存在を知った。すぐに東京の編集部に連絡を入れ、取材申請を出したが、〆切りは終わっているという返事だった。そのため、自腹で観に行った、重み(!?)を原稿から感じて欲しい。

☆      ☆      ☆      ☆

八月二日、ロサンゼルスの郊外にある、『ホームデポセンター』の青々としたピッチには、世界的に名前の知られた選手たちが散らばっていた。元イングランド代表のデビッド・ベッカム、アイルランド代表のロビー・キーン、元アメリカ代表のランドン・ドノバン、スペイン代表のイケル・カシージャス、シャビ・アロンソ、アルゼンチン代表のゴンサロ・イグアイン、アンヘル・ディ・マリア、そして元ブラジル代表のカカ。ベンチには、ポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナルド――。
ホームデポセンターを本拠地とする、ロサンゼルス・ギャラクシーとレアルマドリーの親善試合が開催されていた。レアルマドリーがプレシーズンマッチとして、アメリカを訪れていたのだ。
観客席には、下ろしたての真新しいレアルマドリーの七番のユニフォームを着た子どもたちをあちらこちらに見つけることが出来た。アメリカ国歌が流れた後、試合が始まった。
ぼくは南米のブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ペルー、コロンビア、欧州のフランス、イタリア、ポルトガル、ドイツなど世界各国でサッカーの試合を見てきた。この日のスタジアムの空気は、そうした国々とは違っていた。
まず、試合が始まっても、スタジアム全体のさざめきが止まらないのだ。この日のチケットは芝生席でも八十ドル、椅子のある席は最低百数十ドル以上する。サッカーの好きならば、特にレアルマドリーの世界最高クラスの選手たちの妙技を一瞬足りとも見逃さないように目を凝らすことだろう。
 ところが、アメリカ人の観客たちは試合中も次々と立ち上がり、ビール、フライドチキン、ポテトチップスを持って、通路をうろうろと歩き回る。ボールがゴールに近づき、得点の匂いが感じられるような場面であっても、ピッチに平気で背を向ける。頻繁に人が移動するのでしばしば、視界が遮られた。
レアルとギャラクシーの力の差は明らかだった。
カカは身体が少し重めで、レアルの選手は休み明けに軽く身体を動かしている印象だった。
一方のギャラクシーの所属するMLSは現在、シーズン中である。意地を見せなければならなかったが、ロビーキーンが鋭い飛び出しを見せた以外は、全く見るべき所はなかった。ベッカムは相変わらず正確なフリーキックを見せたものの、プレーにかつての切れはなかった。彼が望んでいたにも関わらず、イングランド五輪代表から落選したのも頷けた。そして、ドノバンはかつての輝きを失い、埋没していた。
 レアルは何度も、そして楽々とサイドを突破し、得点機を作った。レアルから見た右サイドは、欧州の厳しい試合を勝ち抜いた選手にとっては、鍵をつけたまま外出してしまった空き家のようだったろう。レアルは次々と点を決め、前半で三対一とリードした。
不甲斐ない戦い振りにブーイングが起こっても仕方がないような試合だったが、苛立った雰囲気からはほど遠かった。
前半終了前、試合の流れと関係ないところで、どよめきが起こった。レアルの控えの選手たちがアップを始めたのだ。その中にはクリスティアーノ・ロナルドがいた。
ハーフタイムが終わり、ユニフォームに着替えたクリスティアーノが姿を現すと、大きな拍手が起こった。
クリスティアーノ・ロナルドが、抑えめながらも、ドリブルすると観客は大喜びだった。ギャラクシーの選手に囲まれた、クリスティアーノは首を右に振った瞬間、その反対にパスを出した。かつてロナウジーニョが得意としたノールックパスである。
おおっ、とぼくは思わず声を上げたが、周囲の反応はなかった。スターというのは、観客が何を望んでいるのか感じられる人間である。今度は、サイドからのクロスボールにオーバーヘッドキックでシュートを狙った。観客たちは立ち上がって歓声を上げた。
後半から、クリスティアーノ・ロナルド、の他、メスト・エジル、カリム・ベンゼマなど溜め息が出るような控え選手≠ェ現れたが、相変わらず、食べ物やトイレで席を立つ人が多く、落ち着かない雰囲気のまま試合は終了した。ぼくが見たかった選手の一人、背番号十番をつけたエジルが、アウトサイドでひっかけて、ボールを浮かすという気の利いたパスを一度出したが、誰も声をあげなかった。
試合は五対一で終了。ベンゼマがシュートを外さなければ、あと三点はレアルに入っていたことだろう。そして、ロビー・キーンとベッカムが前半で退いたギャラクシーは、点が入りそうな気配は一切なかった。
帰り道、ぼくはJリーグが始まったばかりのことを思い出していた。
行儀が良く、他人に気を遣う日本人はアメリカ人と違って試合途中に頻繁に立ち上がり、動き回ることはなかった。サッカー先進国の応援を学ぼうと貪欲だった。ただ、何か楽しそうだからスタジアムに来てみようという、浮かれた空気は、あの時の日本と同じだった。
プレシーズンマッチには様々なチーム、著名な選手が来日した。世界的に有名な選手が来るということで、サッカーに興味がない人もスタジアムに足を運んでいた。まるで、外国人アーティストの公演のような感覚だった。ぼくも取材パスを次々と申請して、そうした試合に出かけ、当たり前のように当時、世界最高峰の選手たちのプレーを楽しんだものだった。非常に楽しく、得がたい体験だった。

この日の入場者数は三万三百十七人、スタジアムはほぼ満員だった。レアルにとっては大成功のアメリカツアーだったろう。多くの客がレアルマドリーかギャラクシーのレプリカユニフォームを着ていた。二つのクラブカラーと同じ白色のコリンチャンスのユニフォームや、レアルの選手の代表ユニフォームの人も目に付いた。中には、アメリカンフットボール・チームのユニフォームを着ている人もいたのは、アメリカらしい大らかさだった。それでも相当数のレアル・マドリーの白いユニフォームが売れたことは間違いない。
翌朝、テレビではロンドン五輪の女子サッカーを映していた。なでしこジャパンはブラジル代表をしぶといサッカーで、しっかりと二点差で勝った。日本のサッカーは以前と比べると信じられないほど前進している。
ただし――。
チャンピオンズリーグで優勝したチェルシーもまたアメリカを訪れ、MLS選抜と親善試合を行っている。香川真司が移籍したマンチェスター・ユナイテッドは中国に遠征した。世界のサッカービジネスの潮流は日本の上を通り過ぎている。マンチェスターUが香川を獲得した時、「ユニフォームを売るためではない」という趣旨の発言をチーム関係者がした。ぼくたちは日本人選手が正当に認められる時代が来たと喜んだが、ユニフォーム販売市場として日本はそれほど期待されていないというのも事実かもしれない。
日本のサッカー愛好者の目は肥えており、お祭り騒ぎのビジネスは必要ない。ただ、本物のクリスティアーノ・ロナルドを実際に見ることができた、七番のユニフォームを嬉々として身にまとい、彼の髪型を真似たアメリカの子どもたち――ロナルジーニョたちを、日本の子どもたちが羨ましがることは間違いない。

ホームデポセンター。名前だけ聞くと、DIY用品を買いに行くのと区別が付かない。小振りで使い勝手の良さそうなスタジアム。

この日、スタジアムには小さいロナルド=ロナルジーニョが沢山いた。

 

2012年08月01日

今回のアメリカ行きは、いくつかの目的があった。最も大切だったのは、リッチモンドに行くことだった。
今から、十数年前――。
二〇〇一年三月、成田エキスプレスが動いておらず、箱崎までタクシーを飛ばし、リムジンバスで成田に着いたのは、出発時間ぎりぎりになっていた。狭いエコノミー席に押し込まれて、二十時間以上掛けて、ダラス経由でリマに到着した。南半球のペルーは夏だった。夜中だというのに、湿気がひどく蒸し暑かった。ボロ雑巾になったような気分だった。バックパックを背負って、セントロのホテルに辿り着き、ベッドに倒れ込んだ。

小学館を退社して一年が過ぎていた。編集者という仕事は、記者やライター、カメラマン、デザイナー、上司など他人の時間に縛られることが多い。不自由な生活から逃れて、本を読み、しばらくは気楽な生活を楽しんでいた。スペインとポルトガルを彷徨ってから、当時次々と出来上がっていたwebサイトで連載を始めていた。しかし、原稿料は破格に安く、作品を作り上げるというよりも情報商社≠フような感覚の人間たちが少なくなく、雑誌メディアに馴染んでいたぼくにとっては、つかみ所がなかった。
ペルーに行こうと思ったのは、大統領選挙があったからだ。
ぼくは九十七年の大使公邸事件でペルーに週刊誌の特派員として滞在していた。上司たちの力を借りて、それなりの記事には仕上がっていたが、自分がペルーの抱える問題をきちんとえぐり取っていないのではないか。もっと深く取材しなければという思いをずっと抱えていた。
この時、行われることになっていたのは、日系人のフジモリ大統領が去った後の選挙だった。日本で亡命扱いとなったフジモリ後については、日本人だと取材すべきだと感じた。しかし、企画書を持って回っても、「日本人の読者には興味がない」と断られ続けた。企画書を持ち帰って、テレビを点けるとワイドショーが流れていた。全くどうでもいいニュースばかりだった。ジャーナリストと称する人間が毒にもならないコメントを発していた。馬鹿馬鹿しいことの方が仕事になるなんてと苛立たしく、すぐに消した。
出版社を辞めた当初は、自分ならばいい作家になれると強気で、楽観的だった。しかし、これまで組織の中にいて原稿を書くことはいかに守られていたのか実感し、仕事を作ることの難しさを突きつけられていた。結局、小さなコラムを幾つか書くことで、経費の一部を負担してもいいと週刊誌時代の上司が言ってくれたのは、出発の間際だった。
取材費の不足は他の記事を書くことで補うしかない。たまたま、リマにある日本人サッカー選手がやってくる可能性があることは知っていた。彼の代理人は昔からの友人だった。
それが廣山望との出会いだった。
ジェフ市原からレンタル移籍していたパラグアイのセロ・ポルテーニョがリベルタドーレス杯のためにリマに来ていたのだ。
彼を追いかけて、パラグアイ、ドイツ、ブラジル、ポルトガル、フランスに出かけた。
世界選抜の試合が行われたドイツでは、トレーニングのためにゴルフ場を走っていたら、大きな犬に追いかけられて二人で必死で逃げた。
ブラジルのレシフェでは、登録に必要な就労ビザが下りず、じりじりした時間を一緒に過ごした。
ポルトガルでは、彼に頼まれたパソコンを運んだところ、ポルトの空港で数時間足止めされた。
フランスのモンペリエでは、なかなかクラブが住居を提供してくれなかった。バカンスシーズンの不動産屋を回って、アパートを探した。

長い時間を過ごすうちに、様々なことを尋ねた。答えにくい質目にも、彼は考えながら言葉を選んだ。一人の人間に長期間、きちんと話を聞くことは、書き手を成長させることを知った。出版社を辞めて手探りで生きていたぼくの人生と彼の人生は、時々重なっていた。そして、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』(幻冬舎)という本にまとめた。ぼくにとって最も大切な本の一冊である。
モンペリエの後、彼は日本に帰国し、ヴェルディ、セレッソ、ザスパでプレーした。そして昨年、家族を連れてアメリカのリッチモンドに渡った。リッチモンドはMLS(ベッカムやアンリがいる!)の二部的な存在であるUSLリーグに所属している。昨年の五月、ぼくはリッチモンドに渡り、話を聞いた。今年、彼は今季限りでの引退を表明した。

ぼくがフランスのモンペリエで様々な経験が出来たのは、廣山というサッカー選手がいたからである。彼のお陰で様々な人間と知り合うことが出来た。こうした出会いは、ぼくにとって財産となっている。
そんな彼の現役最後は絶対に見届けなければならない。そう思って、アメリカに行くことにしたのだ。
彼と会うのは、昨年末の『偶然完全 勝新太郎伝』の出版パーティ以来だった。過去に遡って、久し振りに話を聞いた。リキェルメのいたボカ・ジュニア、ジュニーニョ・ペルナンブッカーノのいたリヨンとの対戦――改めて彼の試合を見続けてきたのだと実感した。ぼくも自分の人生を振り返るようで感慨深かった。
今後は、指導者・廣山望を追いかけることになる――これからが、さらに楽しみである。
  

朝晩は冷え込むロスから到着すると、リッチモンドは暑い。この日、スタジアムには食べ物の屋台が沢山出ていた。

この日、彼の出場時間は短かったが、リッチモンドは二対一で勝利した。プレーオフ進出まで厳しい戦いが続く。