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疾走ペルー 最近の仕事っぷり
   
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2002年2月25日


サンパウロからロス。“戦争中”のアメリカ合衆国は異常に警備が厳重だった。サンパウロから積み込んだ荷物を一度出さなくてはならなかった。それは9月11日以降そうだったから、まあ許そう。今回はさらに、搭乗口で靴を脱がされ、靴だけ三度も、赤外線チェックをされた。はっきり言って迷惑だ。アメリカ合衆国に悪意は持っているが、爆弾は持っていないと言おうと思ったぐらい。
そもそもアメリカ合衆国という国の都合で、南米便はロスで降ろされてきた。日本から南米に行くのならば、欧州を経由してもいいはず。しかし、その便はほとんどない。経由で落ちるお金を稼ぐため、アメリカ経由にさせているからだ。
貧しき国を爆撃して、その報復が怖いと、今度はわざわざ経由させる第三国の人間に不愉快な目をさせる。僕にとってはアメリカ合衆国なんて国は、サンパウロからの帰り道で寄らなければならない国にしか過ぎない。自国の都合で戦争をしているのだから、南米便は、アメリカ合衆国の補償で、全てメキシコシティ経由にでもしてくれればいい。そのぐらいの犠牲を払うべきだと思う。どうしようもなく傲慢な国。
と怒りながら、帰国。
          ☆   ☆
前略
一月十日から日本を空けておりましたが、昨日ブラジルより帰国しました。
今回の取材、リオ・デ・ジャネイロのカーニバルについて週刊現代(講談社)3月11日発売号のグラビアに掲載します。写真は、昨年上梓した「CUBA ユーウツな楽園」と同じく写真家の横木安良夫氏によるものです。書店で是非手に取ってください。

 

 

 

2002年2月17日


昨日、カーニバルの最後に行われる、チャンピオンズ・パレードが行われた。日曜日と月曜日に行われたコンテストで、一位から六位に入ったサンバチームが行進するのだ。
そして、今日から夏時間が終わった。1時間、時計の針を後ろに戻した。リオの夏は終わりつつある。
そろそろ僕も地球の裏側、未だ冬の日本に帰らねば。

 

 

 

2002年2月13日


今日はいわゆる「灰の水曜日」だ。リオの人々は日曜日から火曜日までカーニバルを楽しみ、水曜日には燃え尽きて灰になる。カーニバルの喧噪は終わり、街に静寂がやってくる−−。
なんていうのは、伝説だ。映画「黒いオルフェ」や最近リメイクされた映画「オルフェウ」の中にしかない。灰の水曜日の今日も、コバカバーナの海岸には人が溢れていた。カーニバルを避けてリオの街を出るカリオカは多いと聞く。カーニバルのためにリオにやってきた観光客は、灰になってなどいられないのだ。
テレビでは、カーニバルの結果発表を中継している。カーニバルは、エスコーラ・ジ・サンバと呼ばれるサンバチームのコンテストなのだ。人々はバールでビールを飲みながら、テレビに見入り、審査員の点数に一喜一憂している。優勝したのは、マンゲイラ。僕の大好きな歌い手、カルトーラが設立した名門のエスコーラ・ジ・サンバだ。
カーニバルの優勝チームが決まり、灰の水曜日も終わる。リオの街は明日から動き出す。

 

 

 

2002年2月8日


リオでは砂浜でサッカーをしているのはもちろんだが、海岸沿いの道を人々が走っている姿を見かける。
今回はスペインではサッカー留学生に混じってボールを蹴り、アスンションでは、所属クラブの決まらない選手たちの練習に参加したりと身体を動かしていた。所属クラブが決まらないといっても、パラグアイ代表としてマレーシアで行われたワールドユース出場した選手や、ウルグアイの名門モンテビデオに所属していた選手など、レベルは高い。監督はパラグアイ代表のゴールキーパー、ホセ・ルイス・チラベルトの兄ロランドだ。
 もちろん彼らにボール扱いでは全く相手にはならないが、一緒に走ったり、ミニゲームに参加したりしていた。ただ、日曜日にアスンションで、ドセ・デ・オクトゥーブレ所属(元市原)の菅野のトレーニングにつき合って十キロ走ったのを最後に、ブラジルに来てから運動をしていない。
僕もカリオカ(リオの人)を真似て、海岸沿いを走ってみることにした。
気温はアスンションのほうが高い。ずっと身体を動かしていたという自信もあった。
しかし、だ。
フラメンゴ海岸から、ボタフォゴ海岸へ。ボタフォゴ海岸を越えたところで、Uターンして戻ったのだが、三十分を越えたあたりで脚が動かなくなった。暑いのだ。気温もそうだが、湿気がひどい。シャツは汗でびっしょりになり、身体にへばりつき気持ちが悪い。カリオカたちが、上半身裸で走っている訳を知った。
こんな空気の中で週三回も試合をするブラジル人選手は偉大だと思った。ロマーリオたちブラジルの選手が、むやみに動かない理由が身体で知った。

 

 

 

2002年2月6日


サンパウロからリオへ。二つの都市の間には、一時間おきに飛行機が飛んでいる。所要時間約四十五分。
飛行機が下降し始め、青い海が下に見えた。海岸沿いに立ち並ぶ高層ビル群。
飛行機を出て、タラップに立つと暖かい空気が肌に触った。四年ぶりのリオの空港は新しくなっていた。
タクシーでコパカバーナへ。
強い日差し、青い海。砂浜で男たちがボールを蹴っているのが目に入った。椰子の実が積み上げられた海沿いのバール。水着姿の女性。元々リオには人をうきうきさせる何かがある。そしてこの時期は特別だ。カーニバルが近づいているのだ。

 

 

 

2002年2月4日


サンパウロのリベルダージに滞在している。このウェッブの名前にもなっている東洋人街だ。四年前、半年ほどブラジルに住んでいたのだが、その後この国を久しく訪れることがなかった。昨年、立て続けに二度サンパウロに訪れた。ただ、二度ともパラグアイの帰りで、ほとんど時間がなかった。
今日、四年ぶりにゆっくりとリベルダージを歩いた。大きな変化はないが、確実に変わっている。まず昔よりも、人が多いと思った。リベルダージの中心を通るガルボン・ブエノ通りの歩道は人で一杯だった。
しかし、どこか違う。立ち並ぶ店の看板には漢字が多いのは相変わらずだ。何が違うのだろう。人々が話しているのを聞いて、分かった。日本語を話している人が減ったのだ。四年前は、道を歩くと日本語が耳に入った。今は店先で客の相手をしているのは、浅黒い顔をした混血の男。街並みとして東洋人街は残っているが、確実にリベルダージはブラジルに埋没しつつある。
パラグアイからサンパウロに来たため、余計にそう感じたのかもしれない。パラグアイは、農業移民として集団で入植したのが未だに継続している。入植地に行けば、村全てで日本語が通じる。それはアスンションのような都市でも同じで、日系人の家庭では日本語を話し、子供は日系人だけの塾に通う。そのため、ブラジルやペルーと違って、二世三世となっても、みんな綺麗な日本語を話す。といってもパラグアイの日系人が孤立しているような感じは受けない。パラグアイには、日本だけでなくドイツ系、アラブ系、中国系、韓国系、様々な国からの移民を受け入れ、当たり前のように他民族が存在していた。
ブラジル、パラグアイ。隣の国でありながら、日系社会のあり方はずいぶん違う。
歴史的背景があるから、どちらが正しいなんてことはいえない。
ただ、僕は日本人として、リベルダージから日本の匂い、それも今の日本にはない懐かしい匂いが消えるのは惜しい気がした。

 

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