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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2004..........2003..>> 12..> 11..> 10..> 9..> 8..> 2..> 1..........2002

 

 

2003年1月29日


サンパウロでは雨が続いている。
ブラジルでは夏休みを一月にとることが多く、今週に入ってようやく人とアポイントメントをとることができるようになった。前半ののんびりした滞在のつけが、今になって回ってきている。
さて。
取材の合間に、映画「Cidade de Deus(シダージ・デ・デウス)」を観に出かけてきた。
ここ数年、ブラジルでは、ファベーラ(貧民街)で麻薬を扱い、大きく成長した新興マフィアが、はびこっている。その代表的なのが、コマンド・ベルメーリョやテルセイラ・コマンドという集団で、彼らの回りでは死が蔓延している。この映画は、リオ・デ・ジャネイロのそうした新興マフィアを描いている。
映画の中の登場人物たちの言葉には、訛りがあり、かなり聞き取りづらかったが、それをあまりある面白さ。陳腐な言い方をしないほうがいいのだろうが、ブラジル版「パルプ・フィクション」とでもいえる。「パルプ・フィクション」と違うのは、話は実話に基づいていること。
筋書きは少し気に入らないところもあったが、二時間、飽きることはなかった。

 

取材で訪れた雑誌「イスト・エ」編集部。元々は工場だった場所を編集部に使っている。古くて雰囲気がある。


 

 

 

2003年1月19日


一泊でパラグアイのアスンションへ。
到着した昨日は曇っており、湿度はあるものの、サンパウロと比べてそれほど暑いという感じはしなかった。
ところが、今朝起きてみると、うって変わって強い日差し。街角に設置してある温度計は四十一度を指していた。気温だけでなく、湿度があり、日陰でじっとしているだけで汗ばんでくる。
街を車で流すと、人々は玄関口の日陰に椅子を持ち出して、何をするでもなくぼんやりと通りを眺めている。とてもこの天候で何かをする気にはなれないだろう。何も考えず、男たちは上半身裸で、時折冷たいテレレを口にする。これが最高の過ごし方なのだろう。
のんびりした空気の流れるアスンションからサンパウロに戻ってくると、この街が喧噪の都であることを実感する。

 

アスンションの国会裏にある貧民街にて。道の真ん中でシャワーを浴びる男。国の中枢と貧民街が隣り合わせになっている国はそうそうない。


 

 

 

2003年1月17日


サンパウロでは、いつもリベルダージにあるバロン・ルーというホテルに泊まっている(畑正憲さんも常連らしい)。昨年2002年、総計で一ヶ月ほどこのホテルに滞在したことになる。今年もすでに二週間滞在している。
このホテルには、ケーブルテレビが入っており、NHKのインターナショナル放送を見ることができる。大相撲、連続テレビ小説「まんてん」などなど。日本にいる時にはほとんど見ない番組を見ることになる。今日、NHKからは、阪神大震災から八年という言葉が良く聞こえた。
八年前−−。あの時も僕はサンパウロにいた。飛行機を降りると、出迎えに来てくれたこちらのコーディネーターが「日本で地震が起こった」と慌てた顔をしていた。
ブラジルでは地震がない。ちょっとした地震に大げさに反応しているのだろうと取り合わなかった。
「日本では地震はしょっちゅうあるんだ」
僕は、二十四時間以上飛行機に乗り疲れていたのだ。ところが、飛行場のテレビで流れていたニュース映像を見て愕然とした。それが阪神大震災だった。
あれから八年。月日の流れは早いことを実感する。
サンパウロは今日、久しぶりに青い空が広がった。

 

リベルダージ地区で人気の菓子パン屋さんのイチゴ大福


 

 

 

2003年1月16日


ブラジルというのは、通常服装には気を遣わなくていい国だ。高級なレストランにもジーンズで出かけても、とがめられることはない。しかし、この国には依然として、ネクタイとスーツを着ていないと認められないという古い世界も残っている。リオ・デ・ジャネイで会った男はそんな種類の層に属していた。夏のリオ・デ・ジャネイロに、僕はネクタイを締めて降り立つことになった。
今週に入ってサンパウロは、雨が降り続き肌寒い天気が続いていた。海岸部にあるリオ・デ・ジャネイロは、三十度を越える暑さだと考えて身構えていたが、それほどでもなかった。曇っていたこともあるが、空港から空調の効いたタクシーを利用し、冷房の入ったビルに移動すれば、この国でもネクタイをして生活できることを知った。
さて。午後、会見を終え、サンパウロに飛行機で戻ってきた。リオ・デ・ジャネイロからサンパウロにはシャトル便が飛んでおり、所要時間は四十五分。あっという間に着くはずだったが、サンパウロの街中にあるコンゴーニアス国内空港の上には強い雨が降っており、着陸できない。半時間ほど上空を旋回し、結局少し離れた郊外のグアリューリョス国際空港に降りることになった。グアリューリョス国際空港は小降りだった。飛行機は天候の回復を待って、コンゴーニアスに再び飛び立つとアナウンスがあった。ただし、預けている荷物のない客はここで降りてもいいという。航空会社は、グアリューリョスからコンゴーニアスまでの陸路の交通手段を補償する気はなく、急いでいるならば自分たちで行ってくれというわけだ。半分ほどの客がグアリューリョスで降りた。僕も預けている荷物がなく、コンゴーニアスに戻る必要もなかったので、タクシーで市内に向かうことにした。空港からのタクシーの中、雷が鳴り、雨が降り始めた。無線機から聞こえるひび割れた声から、今度はグアリューリョス空港が大雨となり、飛行機が出発できなくなったことを知った。あのまま残っていれば、空港に足止めされていただろう。
サンパウロの天候は本当に侮れない。

 

グアリューリョス国際空港にて


 

 

 

2003年1月12日


サンパウロは夏。気温は三十度を越え、強い日差しが照りつける。と、思ったら午後にはバケツをひっくり返したような強い雨が降る。サンパウロは天候が不安定だ。
昨年、サンパウロには三度、一番最後に訪れた十月には三週間以上滞在した。ブラジルの街並みは、日本と違って、四、五年空けたとしてもそう変化はない。たかだか二、三ヶ月ぶりのサンパウロは、前の滞在と継続しているように感じた。前と違うのは、大統領選が終わり、街から横断幕やポスター、チラシが消えたこと。新年一月一日に髭面のルーラが大統領に就任した。
今回、ブラジルでは色々とやらなければならないことがある。打ち合わせ等の準備、実際の取材、この国ではいつも思ったように事が運ばない。もちろんいつも最終的には辻褄を合わせ無事に仕事を終えてきたという自信はある。しかし、終わるまでは気が抜けない。
土曜日、こちらの駐在員の子弟が通う、日本人学校に出かけてきた。学校が休みの日に、僕の知り合いである岩元さんが子供たちにサッカーを教えているのだ。僕もその中に混じった。楽しいひとときだった。

 

サンパウロの日本人学校の子供たち。休憩中。


 

 

 

2003年1月5日


日本にいると、どうも更新が鈍ってしまう。全く“週刊”ではないとの指摘を良く受ける。2003年の今年は、もう少しまめに更新するか、タイトルを変えるか。
      ☆     ☆
あけましておめでとうございます。
新年早々一月六日より、日本を空けることになりました。昨年は一年間で、地球を三周回りましたが、今年も動きの激しい年になりそうです。一月七日から、しばらくサンパウロを中心にブラジルに滞在。その後ペルーのリマに立ち寄り、ポルトガルを経由して日本に戻ります。
寒い日本を抜けて、真夏の南半球に向かうことは嬉しいのですが、戻ってきた時に、もっとも寒い時期にぶつかりそうです…。
いつものようにパソコンを持ち歩きますので、メールで連絡がつきます。今回は仕事が立て込んでいるので、前回のように、宝石を掘りに出掛け、電気の通っていないところに滞在することもないはずです(!?)。旅の時々には、ここに近況を載せる予定です。

 

 


 

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