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疾走ペルー 最近の仕事っぷり
キューバ カーニバル
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2002年9月30日


相変わらずこの国はでたらめだ。でたらめと言っても、そこには諦めと許しの意味が入っているのだが。
五月に来た時、知り合いの事務所は、LAN接続になっており、快適にインターネットに繋ぐことが出来た。屋根の上にアンテナが設置してあり、無線で繋げていると説明を受けた。
今回来てみると、この無線LANが繋がらなくなっていた。真偽のほどは定かではないが、無線の大元というのが、どこかからか電波を盗んでおり、それが発覚して使えなくなってしまったという。契約の内容を聞いてみると、アンテナ等の初期投資をすれば、後は半永久的に接続料は無料だったというから、電波を盗んでいたという説明は十分あり得る。パラグアイというのは、こんな嘘のような話が起こりうる。
 今回不便になったのは、このLAN接続が使えなくなったこと。そして、もう一つがキャッシュディスペンサー。
 この国に来るといつも金銭感覚がおかしくなる。といっても何かを買い漁るわけではない。この国の通貨、グアラニーは数が大きくて、時に高いのか安いのか分からなくなるのだ。
今年一月に来た時は、1$が4700グアラニーだった。今回は、1$が6200グアラニー。この通貨暴落に関係あるのか、どうなのか分からないが、シティバンクのキャッシュカードを、こちらのキャッシュディスペンサーが全く受け付けない。パラグアイのキャッシュディスペンサーは、グアラニーとドルと両方引き出すことができた。しかし今回、ドルはもちろん、グアラニーも引き出すことができない。同じカードを持っている菅野によると、九月に入ってから全く使えないという。仕方がなく、クレジットカードでキャッシングしてグアラニーをおろした。
シティバンクのカードは、世界各国で使えると謳っているが、元々南米では、シティバンク支店のキャッシュディスペンサーでさえ使えるものと使えないものがあった(多くの場合、使えない)。パラグアイやブラジルの窓口で、何回か尋ねたのだが「分からない」と両手を挙げられた。そのため僕は以前から、パラグアイではシティバンクのキャッシュディスペンサーではなく、ドイツ銀行のを使っていた。しかし今回、頼みのドイツ銀行は閉鎖されていた……。
こちらで生活している菅野は、どうしてカードが使えないのかと、日本のシティバンクに問い合わせたが、「問題はない」との回答を受けた。問題はないと言われても実際は全く使えない。パラグアイ人のいい加減さには諦めもつくが、この対応には納得できないのは僕だけだろうか。

アスンション街角

 

 

2002年9月28日


パラグアイに来てずいぶんいい生活をしている。今日は、昨日に続いて夕方からフットサルをした。サンロレンソというチームにいる菅野と、代理人のウーゴ・ヒメネスたちと一緒にチームを作り、パラグアイ人たちと試合をした。昨日は三戦全勝だったが、今日は二対三で敗れてしまった。僕は当たりが激しい、パラグアイレベルでも汚いプレーをしていたためか、試合が終わった後、「韓国人か?」と尋ねられた。
試合が終わった後は、菅野の住んでいる寮にあるプールに飛び込んで、身体を冷やした。菅野とウーゴがプールの横にあるビリヤードで、勝負をするのをビールを飲みながら眺めていた。
夜が更け、ウーゴの古いメルセデスに乗り、窓を全開にし、メキシコの甘い愛の歌を大音量で聞きながら、アスンションの街を走った。土曜日ということで、人が出ている。まるでラテンアメリカの出来損ないの映画みたいだった。しかし、僕たちの行き先は−−日系の組織が主催する盆踊りだった。
会場の入り口には浴衣の女性がおり、人の輪の真ん中には櫓が組まれており、大太鼓が据え付けられていた。日本ではもう二十年近く盆踊りには行っていない。まさか、パラグアイで盆踊りを見に来るとは思わなかった。
ウーゴは喜んで、屋台の焼きそばやお好み焼き、串揚げを食べていた。

アスンション「人づくりセンター」の盆踊り

 

 

2002年9月25日


ポルトガルのポルトの空港でチェックインして、荷物だけアスンションで引き取れるように頼んだ。ところがルフトハンザの男は、
「サンパウロで一度荷物を出さなければ駄目だ」
と首を振った。ポルトから乗るのは初めてだが、マドリッドから乗った時も、デュッセルドルフから乗った時も、アスンションまで送ることが出来た。以前はアスンションまで送ったと反論したのだが、男は「サンパウロの税関を通してくれ」と繰り返した。
「アスンションはブラジル国内だから、最初に到着するサンパウロで税関を通さなければならないんだ」
男はアスンションをブラジルの都市だと勘違いしていた。アスンションはブラジルではなくパラグアイだと指摘して荷物は無事にアスンションまで届けられることになった。欧州から見てもパラグアイは遠い国なのだ。
フランクフルトを経由してサンパウロに到着。サンパウロからアメリカを経由して日本に戻れば、今年に入って地球を三周することになる。スターアライアンスの世界一周チケットを使っているが、エコノミークラスで一年で地球を三周している人間はなかなかいないのではないかと思う。
サンパウロの空港はポルトよりも寒かった。コートを着た人たちが行き交っていた。アスンション行きの飛行機は出発が遅れ、アスンションに到着したのは、ポルトを出て二十四時間以上経っていた。

サンパウロ、グアリューリョス国際空港

 

 

2002年9月23日


午後、廣山選手、同僚のミッケルと三人でお茶を飲んだ。ミッケルはスペインのバスク人のセンターバックで、身長百九十センチほどある。ミッケルにスペイン人とポルトガル人の生活の違いを訊ねてみた。
ミッケルは、まだポルトガルにきて数週間、ブラガしか知らないと前置きした上で
「スペイン人は出歩くのが好きだけれど、ポルトガル人はあまり出歩かない。家にいるのが好きなようだ」と分析した。
ミッケルの意見と関係するが、ポルトガルはレストランが少ない気がする。ファーストフードか観光客向けのレストラン。前者はどこでも同じような味、後者は肉や魚を調理したものと大量のフレンチフライが出てくる。魚はタラや鰯と種類が限られており、肉はブラジルやパラグアイとは比べると寂しい。前に来た時も食事には閉口していた。
ただ、素材は悪くない。
パラグアイでは日系人社会があり、和食、中華の食材が揃うため、廣山選手や菅野選手、情熱大陸の取材で来ていた長南ディレクターたちのため、僕は得意の麻婆豆腐を作ったことがあった。ポルトガルでは、そこまではできないが、スーパーマーケットで買ってきた鮭の切り身をバター焼きにしてみたり、鶏肉でチキンライスやチャーハンを作ったがなかなかの味だった。
なんていう日々を送っていたのだが、ポルトガルにも適当な価格で旨いレストランは確実に存在することがなかった。すくなくともブラガには二軒ある。一軒は有名なレストランで、内臓と豆を煮込んだトリッパが旨かった。内臓と豆は相性がいい。内臓と黒い豆を煮込むブラジルのフェジョアーダは僕の好きな料理の一つ、スペインのオビエドで食べた白い豆と内臓を煮込んだ郷土料理も良かった。ブラガのはオビエドのものに近かった。
また、偶然街中で入った海鮮レストランで食べた、スープの多いリゾットのようなものも美味しかった。中には白身魚の切り身が入っていた。
この二つの料理は、ブラガ独特のものではないだろう。ブラガは内陸部にあるので魚のリゾットが名物料理のはずはない。ポルトガル各地で食べられるはずだ。
ポルトガル人は食に興味がない、料理は不味いと決めつけていたことは撤回することにしよう。
ブラガにすっかり慣れたが、明日の飛行機で、フランクフルト、サンパウロを経由してパラグアイのアスンションへ。南半球のパラグアイは冬が終わり、プール開きしたというメールが来ている。

   

 

 

2002年9月21日


一昨日の夜、ラ・コルーニャからビーゴ、ビーゴからポルト、ポルトからブラガとバスを乗り継いで再びポルトガルのブラガに戻ってきた。ラ・コルーニャでもブラガでも一日一回は雨に降られている。
日本の梅雨のように一日中雨が降っているわけではなく、時には晴れ間がのぞき太陽が照る。
これがこの地方の秋なのかもしれない。

ブラガ街中で見つけた天使像

 

 

2002年9月16日


前日、廣山選手と別れてポルトに一泊。以前ポルトに来た時は、スペインから列車を使って着いた。海沿いのこざっぱりとしたビーゴの街を出ると、雨が降り出した。
空が暗くなり、窓の外から見える家々が古く汚れたものになったと思ったら、ポルトガルに入っていた。ポルトのサン・ベント駅は、タイル貼りで有名だが、明かりが乏しく陰気な感じがした。サン・ベント駅は、旧市街の中心地にあるというのに、駅の前の公衆電話ボックスのガラスは叩き割られ、旧市街の壁にはペンキで落書きがされていた。うらぶれた街だと思った。
今回、ポルトを歩いてみると、割れた電話ボックスは新しいものに交換されており、落書きの数は減っていた。また、街のあちこちで補修工事が行われていた。欧州連合に加入したことで、資本がこの国に流れ込んでいるようだった。
今朝のバスで、僕はポルトからビーゴへ向かった。ポルトの街を出ると自動車専用道路に入った。窓の外には、ポルトガル特有のオレンジ色の屋根に白い漆喰の壁をした農家が緑の中にぽつりぽつりと建っていた。変わらぬ風景に飽きて、うとうとと眠っていた。
目が覚めると、建物の数が増えていた。オレンジ色の屋根が減り、灰色の屋根が目に付いた。建物をよく見ると細工が増えていた。国境を越えてスペインに入っていたのだ。
ビーゴでバスを乗り換えて、ラ・コルーニャへ。ラ・コルーニャの街は強い雨が降っていた。
僕はバスターミナルで雨がやむのを待った。

ガリシア地方名物の蛸

 

 

2002年9月13日


前回ポルトガルに来たのは、2000年三月。出版社をやめてすぐの頃だった。南米の本を書こうというのに、その根っことなる国々に行ったことがないのはまずいと考えたからだった。リスボンから入り、反時計回りにイベリア半島を一ヶ月かけて回った。
今回は、成田からフランクフルト。飛行機を乗り換えてポルト。ポルトから車で内陸のブラガという街に着いた。ブラガは、ボン・ジェズス教会という有名な教会のある静かな街だ。観光客がバスで乗りつけるが、日が暮れるとさっと人が引く。昨晩は石畳の細い路地にある魚料理の店で食事をした。有名な店で場所もいいのだが、客の入りはまばらだった。料理は悪くなかった。
ただ、昼間はレストランで食事をする風習があまりないのか、空いているレストランは少なく昼食の選択は少ない。
コーヒーは上手くて種類が多い。牛乳とコーヒーの比率、カップの大きさで名前が違う。この国はコーヒーと甘い菓子には興味があるようだが、食事には雑なようだ。

ボン・ジェズス教会

 

 

2002年9月11日


出発前日だというのに、昨晩は作家の戸井十月氏たちと会っていた。軽く飲むつもりだったのだが、日付を越えても、僕たちは酒場のカウンターに座っていた。
酒の入った頭で家に戻り、少し寝るつもりで目を閉じると、完全に眠り込んでしまっていた。目を覚ますと家を出ようと思っていた時間になっていた。
だいたい僕は前日まで何も準備をせず、家を出る一時間前に荷造りを始める。持っていくものは頭の中に入っているので忘れ物をすることはほとんどなかった。今回の準備時間はいつもよりも短い二十五分。
成田空港についてみると、ポルトガル語の辞書を忘れたことに気がついた。空港の書店で辞書を買い、フランクフルト行きの飛行機に乗った。

☆   ☆

前略
あの同時テロ事件から一年。昨年あの時期はキューバ取材の後、寒いパラグアイにいました、知り合いの事務所にあるテレビで、ビルに飛行機がつっこんでいく映像を繰り返し見たことを思い出します。
その九月十一日から、またしばらく日本を空けます。まずは、欧州のポルトガル。
スポルティング・ブラガというクラブに移籍した廣山選手に会ってきます。その後、パラグアイとブラジルに移動します。今回は、ブラジルに数週間おり、久しぶりに奥地に入ってこようと考えています。

   



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