www.liberdade.com/ 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事っぷり
キューバ カーニバル
     
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2002年5月27日


ブラジルの街は、ワールドカップが近づいて浮かれつつあった。街を車で走ると、ブラジルの国旗を掲げたり、国旗の色である黄色と緑色で住居を飾ったりする建物が目に付く。
サンパウロの一角には、スポーツ用品、調理用品、家具などの卸しが集中している場所がある。お茶の水と合羽橋、浅草を混ぜて、煤けさせた場所と考えてもらっていい。
サンパウロを発つ今日、その問屋街をのぞきに行った。店頭には国旗、ブラジル代表のユニフォームが吊されて、黄色と緑色のさまざまな品物があふれんばかりに並べられていた。ブラジル人は、ワールドカップになると、みんなで集まり、代表のユニフォームを着てテレビを見て応援する。ユニフォーム、国旗などはワールドカップ観戦に欠かせない。
ちょうど四年前、フランスワールドカップの前もここに来た。あの時と同じ雰囲気。建物が四年だけ年月を経ただけのように感じる。 しかし、四年間は僕にとっては、これまで最も重みのある四年間だったかもしれないと、街のにぎわいを見ながら思った。
夕方の飛行機で、サンパウロを出発。ロスで一泊して日本へ。

 

 

 

2002年5月25日


土曜日の今日、あいにく空は曇っていた。昨日まであんなに晴れていたのにと、悔しく思った。今日、廣山の所属するスポルチは午後の練習がないため、一緒に浜辺に行こうと約束していたのだ。
ホテルは海に面しており、道路をまたぐとすぐ砂浜になっている。小高い砂の丘を上ると、海辺にはビーチパラソルとパイプでできた椅子が並べられており、水着姿の人がくつろいでいた。
上半身裸の褐色の肌の男が僕たちを空いていた椅子に案内した。ビーチパラソルと椅子は男のもので、使うのは無料。頼んだ飲み物で男は利益を得る。
僕たちは手製と思われる鉄製の椅子に腰掛け、背もたれを思い切り倒した。青い空に白い雲が上に広がっている。
僕たちの前に物売りが次々と通る。僕は商売の方法で、物売りを三つに分けた。
まずはバケツで商売する売り子。バケツの中身は、牡蛎に似た貝や茹でた蝦。貝は、オリーブオイルと、レモンをかけて食べるのだという。
二番目は、棒に商品を吊した売り子。このカテゴリーで、多いのはピーナッツ売りだ。長細い袋にピーナッツを詰め棒につるして天秤のように担いでいた。日焼け止めのクリームを棒に吊している売り子もいた。驚いたのは、腹を割いた1メートル以上ある魚を何匹も棒に吊して売っていた男。生ものである魚は多少曇っているとはいえ、太陽の下の行商に向くとは思えない。また、買い手も浜辺で大きな魚を買ってどうしょうというのだろうか、と僕たちは首をひねった。
三つ目が屋台。売っているのはフルーツポンチやホットドッグ、アイスクリームなど。屋台にはさまざまな工夫を凝らしており、一台のアイスクリームの屋台は、バッテリーを積み前に大きなスピーカーをつけて宣伝口上を流していた。絵の描かれている屋台もあった。小さな子供二人と夫婦が、カルディーニャという豆のスープを売る屋台を引いていた。屋台に書かれた名前は、『カレッカのカルディーニャ』。カレッカとはポルトガル語で禿を意味する。確かに屋台を引く父親の頭部は薄かったが、子供もいるのだし、わざわざそんな名前にしなくともと思った。
他にもTシャツ、サングラス、凧、半ズボン、ラジオ。さまざまな売り子が僕たちの前に現れた。僕がどんな物なのか尋ねると、みないやな顔をせず商品を説明してくれた。『カレッカのカルディーニャ』の父親などは試しにカルディーニャ飲ませてくれた。僕たちは、不親切だったドイツを思い出して、確かに南米の国々は、いい加減で困るときもあるけれど、性に合っているという意見で一致した。
僕はパラソルを貸している男に清涼飲料水を頼み、歩いている売り子から貝、蝦を買い食べた。貝からは磯の味、蝦からは海の味がした。いつの間にか雲の数は減り、強い太陽がじりじりと肌を照らした。
もう少し太陽の恵みを受けたいと思ったが、出発する時間が来ていた。昼過ぎのサンパウロ行きの飛行機に予約が入っていたのだ。廣山に空港まで送ってもらい、後ろ髪を引かれる思いでレシフェを後にした。
レシフェからサンパウロまでは飛行機で三時間。満席の飛行機でサンパウロに到着すると、数時間前に浜辺で寝転がっていたことが嘘のように肌寒い。レシフェで買った長袖のシャツを上から羽織った。サンパウロは、秋から冬に向かっていた。

 

 

 

2002年5月21日


昨日レシフェに到着。
アスンションからブエノスアイレスを経由してサンパウロへ。経由したといっても、アルゼンチンの首都ブエノスに滞在したのは、飛行機の中での待ち時間数十分。
アスンションからブエノスまでは空いていたのだが、ブエノスから多くの乗客が乗り込んで満席になった。サンパウロの空港で三時間ほど時間をつぶし、レシフェ行きに乗り換えた。アスンションを昼前に出て、レシフェに到着したのは夜中。一日かけての移動となってしまった。
さて、レシフェ。
雨が降り寒くなりつつあったアスンションや、すでに寒いサンパウロと違い、完全に夏。レシフェは海に面している。泊まっているアパートメントホテルは海岸沿いにあった。部屋からは海が見える。浜辺には水浴びする人。サーフボードを抱えた少年が歩いているのが見える。
ホテルを出ると、木陰で涼んでいた黒人の女性が声を掛けてきた。
「どこから来たの。名前は何ていうの」
そう、四年前ブラジルの北東部を旅していた時はいつもこんな感じだった。次々と人から声を掛けられる。
女性は僕の名前を聞くと、「難しいわね」と首を振った。彼女に会釈して、僕は海岸沿いの道を歩き出した。
「こっちを見て」
振り返ると、彼女は唇を突きだしてキスする仕草をして、大笑いした。僕のことをまだ若いと思い、からかっているのだ。僕はもう三十四才なのだがと、心の中で思いながら、彼女に背を向けて、手をあげて応えた。

隣街オリンダの丘よりレシフェを望む。手前はオリンダの町並みをかたどった木製の土産物。

 

 

2002年5月17日


サンパウロの空港のタラップに降り立った時、寒さに思わず身体を振るわせた。
現地時間で朝五時。夜は明けておらず暗い。南半球はこれから冬になる。サンパウロの冬は底冷えすることは分かっていたのだ。
出発する時は日本が暖かくなりつつあった。冬の場所に行くのは分かっているのだが、ブラジルやパラグアイはいつも暖かいという感覚がある。スーツケースに入れた長袖のシャツは一枚だけ。自分の準備が至らなかったことを心の中で舌打ちした。
ところが。
サンパウロからアスンションに着いてみるとずいぶん様子が違う。
アスンションの古い空港構内を流れる空気は、水分をたっぷりと含んでおり、なま暖かい。
パラグアイはまだ夏だった。
街を車で走ると、自動車に混じって、太い足の馬が荷車を引いて走っている。いつものように、のんびりとした空気が流れていた。二万キロ近く日本から離れているのに、なぜかほっとする街だ。
今日、ブラジル領事館でブラジルビザを受け取った。来週早々にサンパウロを経由してレシフェへ。

テレレを飲みくつろぐ人々

 

 

2002年5月13日


クレフェルドのグーテンベルグスタジアムで行われた世界イレブン対ボルシアドルトムントの試合に出かけた。
先発メンバーは、タファレル、アウダイール、ジョルジーニョ、ドゥンガ、ベベットの94年ワールドカップ優勝メンバー。ここに廣山選手が入った。控えには、ジャウデル、ゼ・ロベルト、パウロ・セルジオなど現在のブラジル代表に選ばれてもおかしくないメンバー。他にも浦和にいたペトロビッチ、元市原のルーファーなど。相手のボルシアドルトムントも、これまたブラジル代表になぜか入らなかったアモローゾ、チェコ代表のヤン・コーラーなど、オフシーズンで選手を落としてきたとはいえ、レベルは高い。
廣山は前半だけで下がった。ハーフタイムで「足がボールにつかないですよ」と反省の言葉を口にしたが、プレーできる嬉しさを隠せなかった。移籍のごたごたで、紅白戦でさえ三週間もしていないのだ。それがいきなり世界的な選手ばかりの中に入って、充分できたのだから、嬉しいのも当たり前だ。
明日の飛行機で、フランクフルト、サンパウロを経由してアスンションへ。

チャリティーマッチの子供たち

 

 

2002年5月12日


久しぶりに言葉の通じない国。
昨日、デュッセルドルフの空港で廣山選手と合流。迎えに来た車に乗ってホテルに移動した。迎えに来てくれたのは、日本語を勉強しているという女性とその母親。といっても日本語はあまり話せなかった。英語でコミュニケーションすることになった。
僕の英語はスペイン語なまりになっている。読むことは問題ないが、話すほうはひどい。それでも何とか意志疎通することはできた。
彼女は、三十分で着くといったが、小一時間迷い、空港から緑の中のホテルに連れてきてくれた。
誰もきちんと説明してくれないのだが、僕たちがいるのは、クレフェルドという街らしい。
今日、タクシーで街中まで行ってみたが、日曜日で店は閉まっていた。ぽつりぽつり空いているカフェやレストランでは英語が通じない。外国人だとわかっているのにドイツ語でまくし立てる。
昨晩、廣山選手と同じく、世界選抜に選ばれたジョルジーニョ(元ブラジル代表)と食事をした。
ジョルジーニョはドイツに五年半住みドイツ語を上手に操る。ドイツ人スタッフの言葉をわかりやすいポルトガル語で僕と廣山選手に通訳してくれた。
ジョルジーニョは四年も鹿島に所属したが、日本語はほとんど話せなかった。
「鹿島には、通訳の鈴木さんがいた。ほかにブラジル人もいて、試合前の円陣もまるでブラジルのチームだった。(日本語を話す)ビスマルクが来てから、ますます日本語を話さなくても良くなった。もう少し日本語を勉強しておけばと後悔しているんだよ」
ジョルジーニョは頭をかいた。
その時、こんなことを言った。
「ドイツは日本と違って閉鎖的だよ。あまり楽しくない」
ブラジルをはじめとするラテンアメリカに慣れた僕にもドイツの街は冷たく感じた。
冷静な廣山選手は「まだ着いたばかり。すぐに決めつけなくてもいいでしょ」と笑っていたが。

 

 

 

2002年5月10日


一ヶ月以上ぶりの週刊田崎更新。
再び、日本を離れることに。以下のメールを友人や仕事関係に出したのが出発の前々日の夜。ところが翌日に連絡があり、シュツットガルトではなく、デュッセルドルフであるとの連絡が入った。出発前から思いやられる。
   ☆       ☆
前略
いよいよワールドカップが近づきました。
前回のワールドカップ直前はサンパウロにいました。サンパウロの街は、祭りの前のように浮かれていたことを思い出します。
当時勤務していた出版社の制度を使って、一年間の休暇をとり南米に滞在していたのです。ご存じのように、出版社は99年末に退社しましたが。
四年後の今年、再びワールドカップ開幕直前をサンパウロで過ごすことになります。
今月11日から、まずは欧州に飛び、ドイツのシュツットガルトという街で、世界選抜に選ばれた廣山望選手の試合を見てきます。その後、パラグアイのアスンション、そしてブラジルに滞在して、30日に帰国予定です。
いつものように、パソコンを持っていきますので、メールでの連絡はつきます。現地での様子は随時ホームページhttp://www.liberdade.com/に載せるつもりです。

 


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