logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2004..........2003..>> 12..> 11..> 10..> 9..> 8..> 2..> 1..........2002

 

 

2003年8月22日


モンペリエを出る前日、雷が鳴り雨が降った。しかし、翌日には再び晴天が戻り、滞在中は天気に恵まれた。いや、恵まれすぎたというのかもしれない。
モンペリエは、夏は気温は三十度前後になるものの湿度は低いため、ほとんどの家庭や事務所では冷房施設がない。今年は四十度近い気温と例年にない湿度に、人々も耐えきれず、扇風機を購入することになった。扇風機は八月がくる前にはどこの店からも姿を消したという。大型スーパーのカルフールなど様々な店に行ったが、一度も見かけなかった。
天気を除くと、フランスは想像していたよりも過ごしやすい場所だった。ほとんどを過ごしたのがパリではなく、モンペリエという南フランスの穏やかな街であったこともあるだろう。会う人、会う人に親切にしてもらった。これならばフランス語を覚えて、またこの国に訪れるのも悪くないと思うようになっていた。
成田空港に到着してみると、東京は三十度の気温。湿度がある分、フランスよりも辛い。

 

 

 

 

2003年8月17日


モンペリエの本拠地である、ラ・モッソン・スタジアムは想像以上に大きく立派なものだった。考えてみれば当たり前だ、このスタジアムでワールドカップの試合が行われたのだ。
今日のモンペリエの相手は、昨年優勝チームのリヨン。試合前から両チームのゴール裏には熱狂的なサポーターが陣取り、モンペリエのゴール裏には大きな日本の国旗を振るサポーターもいた。日本の国旗は、旗の大きさと赤い丸との割合が重要だが、残念ながら旗に対して赤い丸は少々小さすぎた。
試合は20時、モンペリエのボールでキックオフ。モンペリエは先日のボルドー戦と同じ、4−3−3。
試合開始からホームのモンペリエがボールを繋いで攻めるが、シュートまでは至らない。試合開始からしばらく、廣山はほとんどボールにさわることが出来ず、反対側のバモゴにボールが集まった。先日のボルドー戦と違いリヨンの守備は固く、バモゴが一人で突破を試みるのだが、ことごとく失敗。何度もボールを持ちすぎて自滅した。彼は身体的能力は高いが、周りを生かすことが出来ない。21才以下のフランス代表に入っているというが、このあたりを克服しないと、もっと大きなクラブあるいは上の代表には進めないだろう。
リヨンは、八番をつけたブラジル人のジュニーニョ(ペルナンブッカーノ)が左サイドに張り付いて、そこから試合を組み立てた。ジュニーニョは以前、バスコ・ダ・ガマにいる時に何度も見たことがある。その時は運動量の多い選手だという印象だったが、リヨンでは流儀を変えて、効率的に攻めるようになっていた。ボール扱いはさすがに上手く、ドリブル、ワン・ツー、スルーパスと、観客を魅せる。
前半十五分過ぎから廣山にようやくボールが回るようになった。廣山は何度か中盤でボールを持つが、中盤より前は常にリヨンの選手が数的優位を保ち、モンペリエの三人のフォワードを囲い込んだ。廣山は一人、二人と交わしてから、バモゴやデシャンにパスを出すのだが、そこで奪われてしまい、廣山にボールが戻ってくることはなかった。
中盤の守備的な選手は攻めよりも、守備に追われていた。モンペリエの守備陣はみな脚が遅く、なんでもない前線への長いパスが、すぐに危ない場面となったのだ。
廣山はポジションを少し下げてボールを拾い、ゲームを組み立てるようになった。
こうした姿はかつての廣山にはないものだった。周りの選手が若いこともあり、自分が背負っていかなければならないと感じているのかもしれなかった。トラップミスが目立つ、モンペリエの選手の中で廣山は最も安心して見ていられる選手だった。
後半十分、廣山は交代でベンチに下がる。自らの判断でポジションを下げた廣山に対して、監督がどのように判断したのかは分らない。ただ、廣山の調子は良かったため、残念な交代だった。試合は零対二で敗れた。モンペリエにとっては全く見せ場のない試合だった。

 

練習中


 

 

 

2003年8月10日


鉄造りの高い天井をしたボルドーの駅を出てモンペリエに向かった。
相変わらず暑い。三十度を越えている。
言葉の方は相変わらずだ。ボルドーのホテルではフロントの女性がスペイン語が通じた。先週金曜日には、こちらで知り合いになったペドロと、隣町セテの音楽祭に出かけた。ペドロはキューバ人女性と結婚しており、当然会話はスペイン語になる。現地で落ち合ったフランス人の男性はコロンビア人を伴侶にしており、彼らともスペイン語が通じた。
舞台の上では、プエルトリコ人のホセ・アルベルトが素晴らしいサルサを聞かせてくれた。もちろん彼らはスペイン語で観客に話しかける。
これでは一向にフランス語を覚えそうにない。

 

ボルドー駅にて


 

 

 

2003年8月9日


ボルドーの駅に列車が着いたのは、定刻より一時間半以上遅れ、ボルドー対モンペリエの試合開始の十分前だった。
三万人程度収容できるサッカー専用のスタジアムはほぼ満席に埋まっていた。黒のユニフォームが地元のボルドー。この日は欠場していたが、ポルトガル代表のパウレタを擁し、このフランスリーグの優勝候補だ。廣山の属するモンペリエは赤いユニフォームを着ていた。
遅れて入ったので、席が分らず入り口近くで立って見ることにした。観客席は静まりかえっており、彼らのほとんどが応援するボルドーの選手がいいプレーをした時だけ、軽い歓声が上がった。
肝心の試合の内容だが、想像とは全く違っていた。
非常に面白いのだ。特にボルドーの選手はみな足元の技術がかなり高い。守備よりも攻撃を重視し、不必要な場所でボールを追い回すことも、身体をぶつけることもない。中盤の選手は一度足元でボールを収めて、自分の得意な形、ドリブルであったり、パスでワンツーを狙ったりと、観客を飽きさせない。眠ってしまうほど退屈だったポルトガルのサッカーとは全く違った。
モンペリエからボルドーまで七時間かけて来たことの疲れを忘れ、僕は試合を楽しんだ。ボルドーは、一番強かった時のサンパウロFCのように、自由と規律が程良く溶け合っていた。
一方、格下のモンペリエは、中盤の三人は引き気味で、廣山とバモゴ、デシャンの三人で攻撃を仕掛け、何度か好機を作った。
サッカーと音楽には、僕なりの評価基準がある。本当に良いものは、自分もその中に加わってボールを蹴りたい、あるいは演奏したいという感情が起きてくるものだと思っている。
この試合はまさにそんな試合だった。ピッチの中にいる廣山は試合を楽しんでいるようで羨ましいほどだった。
試合はモンペリエがボルドーに一対零で勝利した。外は四十度近くある気温、冷房が効かず風も入ってこない列車の中で我慢した甲斐があったというものだ。
後から廣山に話を聞くと、「この試合は特別で、前の試合、開幕戦はあまりいい試合ではなかった」とのことだが、このリーグには良質のサッカーが期待できそうだ。

 

試合後のモンペリエの選手


 

 

 

2003年8月6日


暑い。
パリのシャルル・ドゴール空港に着いた時から、強い日差しにすぐにサングラスを鞄から探した。パリで一泊して、モンペリエに向かうことも考えたが、結局空港でチケットを買い、その日のうちにモンペリエに入ることにした。
パリは空港に数時間いただけなので、モンペリエの街が初めてのフランスということになる。休暇の時期ということで、街では観光客が闊歩していた。気温は三十度を越えているが、日本と比べると湿気が少ないので日なたを避ければ、意外と過ごしやすい。街並みは綺麗で、開放的な雰囲気があり、すっかり気に入ってしまった。
問題は言葉だ。成田からパリの飛行機の中で五時間ほどフランス語の勉強をしたのだが、まさに付け焼き刃。文法の基本が、スペイン語とポルトガル語に似ているので字面では何となく意味が分る。また、フランス語だと、「ジョ・スィ」(「私は…」) が、スペイン語だと、「ヨ・ソイ」。字面が似ていなくとも音が似ているものもある。
何とかなるかなと甘い期待をしていたのだが、着いてみると……。音が捕れないのだ。フランス語の場合はリエゾンで、単語と単語が繋がって音が変わってしまう。さらに喉をこするような音…。
> 到着した昨晩は、友人の友人の家に招かれた。そこにはキューバ人の妻を持つフランス人がおり、スペイン語を話した(彼とは、フィデル・カストロの悪口で盛り上がった)。
また、シャルル・ドゴール空港のエール・フランスのカウンターでもスペイン語は通じた。ただ、街を歩くと全く通じない。これから二週間強、フランス語にどこまで慣れることが出来るのだろうか…。

 

モンペリエの中心地にて。


 

 

 

2003年8月5日


半年近く更新していなかった…。忙しかったこともあるが、ずっと日本におり仕事場に張り付いていたため、更新する気にならなかった。一度更新が滞ると、大きなきっかけまでなかなか、再び書く気になれなかったのだ。半年ぶりに日本を空けることになった。
今回は欧州。今回はフランス南部にあるモンペリエという街に滞在して、単行本を仕上げることになる。どんな街なのだろうかと、わくわくした気持ちになっている。
      ☆    ☆
前略
ようやく梅雨が明けました。
湿度の高い梅雨は、最も苦手な季節です(得意な人もいないと思いますが)。昔から、お金と時間の余裕を作って、梅雨と台風の時期は他の天候のいい国に避難する人生を夢見ていました。
昨年は地球を三周、今年はすでに一周、移動の多い人生を送れていることは間違いはないのですが、最も寒く雨の降る時期にポルトガルへ、気温四十度湿度たっぷりの時期に南米へ、そして台風と梅雨の時期はほとんど日本にいるという理想からほど遠い結果になっています。
今年も東京で長い梅雨にどっぷりと浸かった後の、来週火曜日八月五日からフランス入りすることになりました。
これまで世界三十カ国を越える国を回っており、南米大陸にあるフランス領ギアナに行ったことがあるのですが、本国は初めてです。
中学、高校時代はギターを抱えロンドンに憧れ、大学時代はシャンソン研究会に属しフランスを感じていた(!?)というのに、イングランドにもフランスにも行ったことがなかったのです。最近はスペイン語とポルトガル語の言葉の通じるところばかりを回っていたので、今回は新鮮な気持ちになれそうです。
フランスでは南部にあるモンペリエという街に滞在します。経過はここで随時報告していきます。
戻りは八月二十二日を予定しています。

 

成田空港にて。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.