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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2003年2月12日


しばらくブラガは暖かい日が続いていたのだが、出発する日は雨が降っていた。
ブラガから、空港のあるポルトに向かう高速道路は霧に包まれていた。
ポルトからフランクフルトに着くと、歩いている人の衣服が明らかに厚着になっていた。フランクフルトから十二時間弱、東京はそれに比べると考えていた程、寒くはなかった。
 
           ☆                ☆
本日午後の便で、欧州より帰国しました。真夏のブラジル、ペルーから、適度な寒さだったポルトガルを経たことで、日本の寒さが多少和らいだ気がします。
一ヶ月少々日本を空けていましたので、しばらくは仕事に追われることになりそうです。
取り急ぎご報告まで。

 

ブラガの街で最も雰囲気のあるカフェ“ブラジレイラ”。いつも年輩の客で賑わっている。この街では、品良く着飾った初老以上の人々が目立ち、若い人間の姿はあまり見かけない。ウルグアイの首都、モンテビデオのようだ。


 

 

 

2003年2月7日


リオからリスボン、リスボンで飛行機を乗り換えてポルトに到着。
僕が心配していたのは、預けていたスーツケースが無事に届くかどうかだった。僕自身はリオ・デ・ジャネイロで一度降り、一泊してリスボンに着いたが、荷物はリマから直接リスボンで引き取るようになっていたのだ。リスボンの荷物引き取り場で待っていると、スーツケースは無事に出てきた。
ところが……。
リスボンから、エアー・ポルトガルでポルトに向かった。気を抜いたのが伝わったわけではないだろうが、ポルトに着いてみると、リスボンで預けたスーツケースが届いていなかった。リスボン〜ポルトは、国内でたかだか三百キロ程度、飛行機に乗っている時間は三十五分しかかからないというのに、だ。荷物紛失係の女性は、慣れた様子で対応し、ブラガのホテルまでスーツケースを届けると言った。
ポルトの空港からブラガに向かう車の中、ラジオを聞いていると、単語は聞き取れるのだが、どうも意味が浮かび上がってこない。ポルトガルのポルトガル語とブラジルのポルトガル語はリズムが違う。ポルトガルのポルトガル語の方が早口で、いくつかの子音を口の中でこもらせて発音する。いつまでもブラジルのポルトガル語を引きずっていても仕方がない、こちらのポルトガル語に慣れなければならないと思った僕は、耳を慣らすため、ホテルの部屋に入るとすぐにテレビをつけた。ところがテレビから流れてきたのは、聞き慣れた言葉。ブラジルの連続テレビドラマ(ノベラと呼ばれる、ソープオペラ。放映時間が日本とは比べ物にならなく長い)だった。EUの最貧国(現段階では)、ポルトガルではテレビの制作費はそれほど豊富ではない。テレビ制作の盛んなブラジルから番組を買っており、ノベラは視聴率で一番人気となっていたことを思い出した。旧宗主国が旧植民地の文化を輸入している、こんな関係はポルトガルとブラジルぐらいだろう。
夜、食事をしてホテルに戻るとスーツケースが届いていた。

 

夜明けのブラガ。空が青い。


 

 

 

2003年2月5日


リマでの滞在は四泊、二年の空白を埋めるには慌ただしいものだった。出発する前夜、リマの友人が集まってくれた。以前から仕事を手伝って貰ったり、一緒に酒を飲んで遊んでいる、新聞記者、テレビのレポーターといった、メディア関係者たちだ。サンパウロ、リマ、こうした友人たちが僕の誇りだ。
さて、リマで僕が定宿にしているホテルも、サンパウロのホテルと同じようにNHKの国際放送をみることができる(わざわざNHKが見られるホテルを選んでいるわけではない。偶然だが、二つのホテルとも経営は中華系)。NHKで、日本ではインフルエンザが流行っているというニュースが流れていた。連日気温三十度を越えているリマではまさに別世界の話に聞こえる。
今晩はリオ・デ・ジャネイロに一泊して、明日の飛行機で北半球のリスボンへ。
一ヶ月ぶりに冬の世界に逆戻りだ。気持ちを引き締めていかないと。

 

リマのセントロ(中心)は、小便の匂いがして小汚いが、バランコ地区は雰囲気がある。まるでキューバのようだ。


 

 

 

2003年2月1日


昨日までのぐずぐずした天気が嘘のように、サンパウロは青い空が広がっていた。
ところが残念ながら、この日の飛行機でリマに向かうことになっていた。僕は、悔しい思いでサンパウロを後にした。
ペルーを訪れるのは二年ぶりのこと。リマの空港は南米でも悪評が高い。出口で、タクシーの客引きが待ちかまえ、客を奪い合うのだ。ペルーのタクシーは、料金メーターがついておらず、乗る前に値段を交渉しなければならない。相場を知らないと、二倍、三倍をふっかけてくる。また、客の争奪は激しく、客を奪い合って値段を下げるあまり、運転手同士が喧嘩を始めたこともあった。
ところが、今回空港から外に出ると、待ちかまえていた客引きの数は少なかった。
そして、タクシー乗り場がきちんと設置されており、行き先によって料金が明示されていた。掲示されている価格は、以前よりもずいぶん高かったが、仕方がないだろう。
リマの街は、気温三十度を越え、青い空が広がっていた。

 

到着した夜、バランコ地区のバールで友人と再会を祝った。このバールは、作家のマリオ・バルガス・リョサが昔から通っていた(今も昼間の人気の少ない時間に顔を出すらしい)。


 

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