logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2004..........2003..>> 12..> 11..> 10..> 9..> 8..> 2..> 1..........2002

 

 

2003年11月11日


昨日もまた、マニュのクラブの試合に出たのだが、ここ一週間不摂生がたたり、動きは悪かった。
今回はフォワードとして入ったのだが、前半に一度フリーでシュートを外し、後半はドリスと絡みながら打ったシュートはあまりに弱すぎた。
さらにレナト・ガウショ(ブラジルではヘナット・ガウショ)を信奉する僕としては、いつものようにレガース(すねあて)をつけずにいたら、相手が若い選手が多かったこともあり、削られ、すねから血が出ていた(やはり僕はレナト・ガウショにはなれない)。
相手チームは、技術的には劣るのだが、運動量が多く激しい。僕たちのチームは故障が続出。僕も終了間際に左腿の裏側を痛めてしまった。結局チームは一対一の引き分け。日本人フォワードとしては責任を感じるところだ。
さて。
今日、足を軽く引きずりながら、昼過ぎの飛行機でモンペリエを出て、パリ。パリで飛行機を乗り換えて成田へ。
       ☆         ☆
前略
本日十一月十二日に無事に帰国しました。のんびりとするつもりが結局、移動が多くなりいつものように慌ただしい滞在になってしまいました。
モンペリエでは、草サッカーに二試合出場。ニームでは生まれて初めてハンドボールを観戦。その他、列車で国境を越えてスペインのバルセロナ、飛行機でガリシア州まで足を伸ばしました。今回は仕事と直接関係のない旅行だったので、自由な時間が多く、色々なことに思いを巡らすことができました。
わずかの間ですが、日本を離れて冷静になれたことは貴重でした。情報に溢れた日本に居続けると、時に何が本当に重要で、何を自分をしなければならないのかを見失ってしまうことがあります(特にこうした経済状態の元では)。
さて。それでは今日から東京の日常に戻り、オリジナルなものを作っていこうと思っています。             
11月12日、東京にて。
 


 

 

 

2003年11月8日


昨晩は昼から、バルセロナ在住の友人夫妻と、ビール、カバ(スペインの発泡酒)、黒ビール、ワイン、ジントニックという順番で飲み続け(場所もサンツ駅の近くのバールから、海沿いのレストラン、中心地のバール二軒、再びサンツ駅の近くのバールへと移動)、夜中の二時半まで飲み続けていた。早朝の列車で、バルセロナを出てモンペリエに戻った。
モンペリエに向かう列車の中から、冷え込んだ。モンペリエは、バルセロナに比べるとずいぶん寒かった。
夕方、ハンドボールの田場選手の試合を見るためにニームに向かった。
ニームには、街の入り口にサッカースタジアムがあり、その横に、立派なハンドボール専用の体育館があった。この国ではハンドボールは人気のあるスポーツであるのだ。
肝心の試合はというと…。
ハンドボールを見るのは始めてだったが、日本でかすか見たニュース映像の印象とはずいぶん違った。ラグビーのように当たりが激しい。力強いのだ。
田場選手は攻撃の中心選手の一人として観客の声援を受けていた(ハンドボールもアメフトと同じように攻撃の時と守備の時と若干選手が入れ替わる)。
すごいと思ったのは、彼は自ら得点を決めるのはもちろんだが、ペナルティスローを任されていたことだ(ハンドボールのペナルティはサッカーと同じようにキーパーと一対一で向き合うのだが、ゴールが小さい上にキーパーが近いので、恐らくかなりのプレッシャーが掛かる)。僕はペナルティの度に冷や冷やして見ていたのだが、彼は三度のペナルティを一度も外すことはなかった。
試合は一点差で田場選手のいるニームが勝利した。相手はペナルティを一度外したので、田場選手のペナルティシューターとしての価値は大きかった。
試合後は、体育館の二階にあるVIPルームで選手たちに混ぜてもらい、シャンパン、そしてワインを飲んだ。
田場選手と飲んでいると、次々と選手が挨拶にきた。彼らはみんな大きく、僕は突然大男の国に紛れ込んでしまったような錯覚に陥った。田場選手も百八十センチを越えているが、周りの選手と比べると華奢で小さいほうだった。
観客席から見ていると、一番小さな選手で百七十センチぐらいかと思ったのだが、少なくとも僕と同じぐらい(177センチ。中学生の時、サッカー部での登録は179センチだったが、今はそんなにはない。世の中の荒波にもまれて縮んでしまったのだ)はある。体の厚みは僕の1.5倍はあった。特に手首、足首の太さが目に付く。例えは悪いが、農耕馬のような手足をしているのだ。
フランス語、スペイン語を使い会話を進める田場選手を見て、外国人にも関わらず、ペナルティシューターを任されている理由が分かった。技術はもちろんだが、精神的な強さも一目置かれているのだ。
フランスの小さな街で、アスリートとしてはもちろんだが、人間的にも魅力のある田場選手のような男と出会えたことが、無性に嬉しかった。そして、この夜も場所を街の中心地、円形劇場の横にあるバールに移して、選手たちと深夜まで飲むことになってしまった…。
 


 

 

 

2003年11月6日


バルセロナで一泊し、昨日ガリシア州のフェロールに到着。
キオスクには、フェリッペ王子と婚約したレティシアが表紙となった雑誌が並んでいた(日本でもTVEを見ているが、レティシアは僕が名前を覚えていた唯一のキャスターだった)。
さて。スペインは、フランスと比べるとずいぶん物価が安く感じる。
フェロールは、フランコ将軍の生地で知られる静かな港町だ(以前は彼の銅像が街の中心にあったが、数年前に撤去された)。寂れた街並みを散歩するとチリを思い出した。
明日の飛行機で、再びバルセロナへ。

 

フェロールの港にて。
漁師の人に気づかれないように、写真家・横木安良夫氏仕込みの「ノーファインダー」で撮影。

港の周りには、古い街並みが残っている。その多くに「売ります」という札が掲げられていたが、すぐに住むことは出来そうになかった。


 

 

 

2003年11月3日


今晩は、マニュのチームの試合があった。地元のアマチュアチームのリーグ戦だ。
これまで、ペルー、ブラジル、パラグアイなどで試合に出てきたが、欧州は初めてとなる(スペインでは練習のみ)。サッカーは書くよりも、観るよりも、自分がやるのが一番楽しい。ボールを蹴る機会があると聞けば、参加しないわけにはいかない。
マニュは四十才を越えており、その年代の人間が多いとは聞いていたが、昨日観た子供のサッカーで分かったように、フランスはあなどれない。マニュは元々はモンペリエの下部組織にいた。他にもパリ・サンジェルマンにいたという医師がいると聞いていたので、とりあえず前半はベンチで様子を見ることにした。
サッカーというのは面白いもので、やはり国柄が出る。皆年を取っているのだが、中盤で細かくパスを回した。目につくのは、ボールの受け方が上手いことだ。ただ、年齢もあって、スピードは速くないので、なんとかやれそうだった。
前半途中に、遅れてピッチに姿を現したドリスという男と英語で会話したところ、昨年までプロ選手だったという。ドイツ、ベルギーの一部リーグのクラブを渡り歩き、生まれ故郷であるモンペリエでコーチの勉強をしていた。昨年はカタールのクラブから誘われたが、親の病気もあって断ったという。そういう経歴の人間がふらっと参加するから、この国はすごい。
年齢層の高いチームに良くあることだが、前半で二人が負傷、ドリスは僕より先にピッチに入った。
前半が終わって、零対零。僕は後半あたまから入ることになった。ところが…、ポジションはほとんどやったことのない左サイドバック…。だいたい僕は守備が苦手なのだ。ただ、中盤は圧倒的にこちらが支配し、相対する右のフォワードの選手はそれほど上手くはないので、それほど厄介ではなさそうだった。
ピッチは良質の人工芝なのだが、滑る、滑る。後半開始早々に、前に攻め上がっていって、シュートを打ったのだが、ミスキック…。これが唯一のシュートとなった。
残りは引きながら、時折前線に待つマニュたちにクロスをあげることに専念した(自分ではそのつもりだったのだが、観戦していた友人からは「上がりすぎ。ずっと前にいましたよね」と指摘された。自分のサイドをつかれての失点はなかったので“良し”としよう)。
ドリスはさすがに上手く、いいタイミングでパスが出る。もう少し長い時間一緒にやれば、点に繋がるプレーが出来そうだった。試合は三対二で勝利。
試合が終わった後に、皆で出掛けるのは万国共通だ。日本の場合は居酒屋だが、こちらはイタリアレストラン。ワインを飲み、サッカー談義に花を咲かせる。チームの会長は五十才の半ばで、モンペリエ大学医学部の教授(二部リーグのチームでプレーしていたらしい。前半は十番のポジション。だんだん運動量が落ちて、最後はリベロのポジションにいた)。センターバックをやっていた人間は、スーパーマーケットの社長(ラグビー一部リーグの選手だった)。中盤の男は、フランス国立フットボール研修所で仕事をしていた(フィリップ・トルシエのことを知っていた。「あいつは頭がおかしい」とのこと)。今日は元パリ・サンジェルマンの人は来なかったが、モンペリエの下部組織の人間は他にもおり、年齢は上だが、かなり水準は高いことが分かった。
カタルーニャ人でスペイン語を話せるマニュがフランス語に通訳して、僕もその輪の中に入っていくことができた。皆が大人で、非常に親切だった。フランス語を話せれば、もっと楽しいのに。と、痛切に思った夜だった。明日は、モンペリエを出てバルセロナへ。

 

モンペリエの本拠地、ラ・モッソンの隣にあるピッチで試合が行われた。
photo by N.H


 

 

 

2003年11月2日


今日は日曜日。天気がいいので海岸に出かける。モンペリエは大きな街ではあるが、少し車で走るだけで、フラミンゴが生息している場所に出る。都市生活と自然、生活の豊かさを感じる。秋の海だが、砂浜には散歩をする人が沢山いた。
午後は、フランス人の友人であるマニュの息子のサッカーの試合に出掛けた。現在、彼のチームはユース年代のカップ戦を勝ち進んでいた。応援席には、親たちが陣取り、大きな声で応援を送った。試合の内容はというと…。かなり水準が高い。子供の試合だとなめていたわけではないが、彼らは少ないボールタッチで「理に適った」サッカーをしていた。もちろん、まだ技術に対応する筋力がついていないので、守備の荒さや失策もあるのだが、大人のサッカーなのだ。先月、埼玉スタジアムまで、全国社会人の決勝大会を見に出掛けたことがあった。その時に見た、沖縄の某クラブよりも、意図の感じられるパス回しがあった。
夜は、ニームに住むハンドボールの田場裕也選手の家に行き、和食をご馳走になる。沖縄出身らしく酒が強く、夜が更けると共にワインの瓶がどんどん空いていった…。

 

モンペリエ郊外の海岸にて。





(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.