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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2005..........2004..>> 12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 1..........2003

 

 

2004年3月31日


アルコールがまだ頭に残っている状態で目を覚ましたのが五時半。外は雨が降る音が聞こえた。これまでの快晴が嘘のように雨が降っていた。
昨晩、隣町セテのクラブにいるバレーボール日本代表加藤選手、ニームのハンドボール日本代表田場選手、そして広山選手−−フランス南部に固まっている日本人選手会として、モンペリエで食事をしながらワインを飲んでいたのだ。加藤選手、広山選手は先に戻り、田場選手と二人で飲んで戻ったのが一時前。
朝七時半にモンペリエを出る便だというのに、荷造りもせずそのまま眠ってしまっていた僕は慌てて荷物をスーツケースに詰めることになった。
雨のモンペリエを車で走り、空港に着いたのが六時二十分。列に並んでみると前の飛行機の便の搭乗をしている客もおり、なんとか間に合ったとほっと胸をなで下ろした。
ところが…。
僕がチケットを出すと、空港の係官は媚びた笑みを浮かべながら、「申し訳ないんですが」と丁寧に切り出した。
なんと僕の乗るパリ行きの飛行機はオーバーブッキングで席がないというのだ。
予約を入れて、切符を買ったのは昨日のこと。何のための予約なのか…。僕の他にも文句を言っている客が数人いた。
僕の場合、目的地はパリではない。この日パリからフランクフルトを経由して日本に向かうことになっていた。次の飛行機では間に合わないのだ。抗議の甲斐もなく、次の飛行機でパリに行くことになった。
パリでルフトハンザに行き、事情を説明すると、ドイツ経由の便は一杯だった。ルフトハンザの男は親切で、ANAと話をしてくれてパリから成田直行便に変更してくれた。モンペリエ〜パリはもちろん、エールフランス。ルフトハンザには全く関係ないというのに、きちんと対応してくれた。スターアライアンス万歳!である。
エールフランスは以前も荷物だけ後に着いたことがあった。それ以降エールフランスの国際線を使っていない。今後、(常時オーバーブッキングすることで有名なスペインのイベリアと)エールフランスには出来るだけ乗らないことを決意したのだった。
晴天のパリを出て、成田に着くと曇り空だった。

 

フランスのシャルルドゴール空港にて。


 

 

 

2004年3月27日


団体競技であるサッカーは、一人の選手の力ではどうにもならないことがある。
今、モンペリエにいる広山選手の状況もそうだ。木曜日に僕はモンペリエの練習に出掛け、監督に話を聞いた。監督は広山選手のことを「スピード、技術、戦術理解力は問題ない。ただフィジカルの強さが少し足りない」と評した。彼の右サイドでの動きについて、攻めに偏りすぎていると考えており、守備的なボランチ(守備的な中盤)の選手として起用する方針だと言った。
僕には釈然としなかった。もし広山選手がフィジカルが足りないのならば、どうしてサイドよりもフィジカルが要求されるボランチなのか。監督の言っていることは明らかに矛盾していた。
練習を見ている限り、左右、両サイドの選手があげるクロスの精度は低い。レギュラー組と控え組に分けてサイド攻撃をするミニゲームでは、レギュラー組はほとんど得点を挙げることができなかった。控え組はポルトガル人FWのルイ・パタカが動き回り何度か得点を挙げた。
監督の言葉通り、ボランチで起用された広山選手は、無難にプレーし、何度か前にドリブルで飛び出して自分の持ち味を出そうとしていた。
しかし、結局今週末の試合に広山選手はベンチにも入ることができなかった。
ベンチ入りできなかった選手は、Bチームとして下部リーグの試合に出ることになる。僕はその試合のメンバー表を見て、先日の練習で明らかに一番調子の良かったルイ・パタカまでが、Bチームに名を連ねていたことに驚いた。
現在モンペリエは三チームが降格するフランスリーグで下から二番めにいる。モンペリエの選手は若い選手が多く、劣勢になった時には浮き足立ってしまうことが予想される。経験がありサッカーを良く知っているパタカや広山と言った選手は今こそ必要な選手であるはずだった。練習場で良く会う、モンペリエの熱烈なサポーターたちは「ヒロヤマがどうしてベンチ入りしないのか分らない」と僕の顔を見ると肩をすくめた。
「モンペリエは昔からこういうことが起こるんだよ。いい選手を使わずに腐らしてしまう」
冷静に判断して、広山選手の能力はチームで五本の指に入る(三番以内に入るかもしれない)。しかし、選手の能力が正当に評価されないことが度々あるのもサッカーの世界である。
現在の監督は、チームの成績不振で今年になってから就任している。以前もモンペリエで指揮をとっていた経験を持っていたという。彼の起用法を見ていると、競争原理を働かせ、状態のいい選手を使っていくという当たり前のことをする監督ではないようだった。
他のクラブからオファーが来ており高く売りたい選手、クラブの関係者と繋がりの深い選手…サッカークラブというのは、“競争原理”だけで動く場所ではない。
昼間に行われたBチームの試合は零対零の引き分け。夜に行われたAチームのナントとの試合、モンペリエはオウンゴールで先制したが、すぐに追いつかれ、結局二対三で敗れた。得点差は一点だったが、九十分守りぱなしのモンペリエは内容的には全く見るべきところはなかった。サッカーというのは時に、チームの状態がはっきりと試合内容に現れることがある。それが救いでもある。

 

Bチームで途中から右サイドに入った広山選手。
パタカもそうだが、このレベルでやる選手ではない。


 

 

 

2004年3月26日


TGVでニームへ。ハンドボール日本代表でニームにいる田場裕也君と昨年11月以来の再会を果たした。この日、空は青く晴れていたが、強い風、ミストラルが冷たく吹いていた。
田場君の練習を見るために、街外れにある体育館へ。練習後には田場君と、最近出来たばかりの日本料理屋、ハンドボールの選手たちの行きつけのバー、アイリッシュパブと梯子し、最後に田場君のアパートでワインを飲み終わったのは四時になっていた。

 

練習前のウォーミングアップで、ワンタッチでサッカーをする。
フランスの選手はみな足でのボール扱いも上手い。


 

 

 

2004年3月23日


南半球のサンパウロを出て、パリに到着。昨年は二ヶ月近くフランスに滞在したというのに、首都パリには立ち寄ったことはなかった。知っているのはシャルルドゴール空港構内だけ、という状態だった。さすがにそれはまずいと、今回はパリに二泊。確かに綺麗な街だった。
そして、TGVでモンペリエに移動。車内で多くの人が本を読んでいたところが、さすがにフランスだった。ブラジルでは本を読んでいる人をほとんど見かけないのだ。日本でも携帯電話に見入っている人間が多く、ブラジルに近づきつつあるのかもしれないのだが。

 

エールフランスもそうだが、TGVも座席は小さい(荷物を置く場所もほとんどなかった…)。
格好良く、そして速く走ればいい−−細かなところにまで気を遣わないのがフランス風なのかもしれない。


 

 

 

2004年3月18日


昨日はブラジリア、今日は車でカンピーナスに近いファゼンダへ。ファゼンダというのはラテンアメリカ特有の、大農場である。元々は欧州出身の農場主の元、黒人などの奴隷を連れてきて働かせた。奴隷が解放された後も、農場内に小作農を多数抱え、教会はもちろん学校まで敷地内にあることさえある。
このファゼンダにある、百年以上前に立てられた主人の屋敷は改装中であったが当時の豪華さがしのばれた。ブラジル人作家のジョルジ・アマードの世界、である。

 

見よ! 種牛の立派な後ろ姿を。


 

 

 

2004年3月15日


今日はサンパウロを出てサントスへ。サンパウロにいる時は、リベルダージに滞在しているが、ここ数年来るたびに街が汚れている気がする。僕がこの街に住んでいた97年ごろはもう少し綺麗だった気がする。そしてその頃は街を歩くと日本語が聞こえてきた。ここ最近、街自体の活気はある。毎日曜日に行われている東洋市の規模は大きくなり、リベルダージ広場に収まらない屋台が、ガルボンブエノ通りにまで伸びている。
ただ、街から日本語は消え、代りに韓国語、中国語、そしてポルトガル語ばかりとなっている。サンパウロの中で、東洋人地区として根付いているが、日本人街としての性質はどんどんなくなっていることは間違いない。
サントスはサンパウロと違って海がある。そして街はずっと綺麗だ。海を見ると、大きく伸びをしたくなった。

 

サントスの海岸。サントスに来たのはもう何年ぶりだろうか。


 

 

 

2004年3月13日


三十六才の誕生日。国外で誕生日を迎えるのは三度めだ。三十六回目ともなるとめでたくもない。
昨日、一昨日と曇り空で時折雨の降る天気が続いていたが、今日は青空が広がった。もちろんこの街では天気は変わりやすく、すぐに雲が広がり雨が降り出すことも良くあるのだが。
食事の後は、サンジョアン辺りを散歩する。

 

サンジョアンは、ロック関係のレコード屋、洋服を売る店が軒を連ねている。
ブラジルには珍しく黒い服を着た人間が多い。


 

 

 

2004年3月11日


昨晩降り出した雨は止むことなく、夜が明けても天井が抜けたように降り続けた。アスンションは秋に入りつつあった。
夕方の飛行機でアスンションを出て、サンパウロへ。サンパウロの空港には、見たことがないほど人が列を作って並んでいた。スペインで起こったテロの影響か、と思ったのだが尋ねてみると、ストライキで出国手続きが遅れているのだという。
空港から市内に向かうとネオンが目に入った。ずいぶん久しぶりの風景だと思った。

 

サンパウロのグアリューリョス国際空港にて。


 

 

 

2004年3月7日


朝から太陽の光線が弱いとは思っていた。それでも昼前には気温は三十度を越えていた。ところが…次第に空に雲が大きくなり、十五時すぎに雷が鳴り大粒の雨が降り始めた。
小雨の降る中、アスンションの隣街、ルケのスタジアムに向かった。スポルティボ・ルケーニョとグアラニの試合が五時から予定されていたのだ。残念ながら、福田健二選手は先発から外れた。試合開始前に雨はあがったが、前半の途中から再び雨が降り出した。僕は思わず入り口の屋根のある場所に駆け込んだ。
後半あたまから福田選手はピッチに入った。空中で競り合い、献身的に球を拾う彼が入ったことで、グアラニはアウェーながら互角以上に試合を進めた。後半途中、雨はさらに強くなった。
試合は零対零の引き分けで終わった。

 

試合は、スポルティボ・ルケーニョのスタジアムで行われた。ルケは武田修宏がいたクラブだ。


 

 

 

2004年3月5日


サンパウロは昨日は終日雨に降られて、肌寒い天気となっていた。今朝早くの飛行機でパラグアイの首都アスンションへ。
アスンションの空港に着いたのは昼前だったが、すでに三十度近くの気温になっており、車で市内に向かううちに気温はどんどん上がっていった。
元ヴィッセル神戸の要田勇一選手が二部リーグのフェルナンド・デ・ラ・モーラというクラブに移籍している。午後からはクラブの練習を見に出掛けた。暑い、暑い。

 

二部チームの練習とはいえ、見物客はいる。
このクラブは今季から二部に昇格。開幕に合わせて観客席を増設するための工事中だった。


 

 

 

2004年3月3日


飛行機が着陸態勢に入ると、サンパウロの気温は二十度だという放送が機内に流れた。まだ朝六時になっていないのにと僕はブラジルの暑さを予感した。
成田から、まずはドイツ、フランクフルトの空港へ。フランクフルトの気温は五度。冬から夏の南米大陸に降り立つのだ。
一年ぶりの南米大陸。到着してみると、空港の匂いが懐かしく感じられた。
サンパウロのグアリューリョス空港から市内に向かううちに気温はどんどん上がっていた。迎えにきてくれた友人の車には冷房設備はなく、渋滞に入ると汗が吹き出してきた。サンパウロは、先週ずっと雨が降っていたが、今週に入って気温四十度にまであがった日もあったという。
ところが。
昼過ぎに急に太陽の光は弱まり、夕暮れには大粒の雨が降り出し、嵐となった。サンパウロらしい天気だ。

 

 


 

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