logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2005..........2004..>> 12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 1..........2003

 

 

2004年6月15日


今回は、サッカーをしたり、サーキットで取材したことで、かなり日焼けしている。これだけ黒くなったのは、四年ほど前にペルーに行った時以来ではないかと思う。
そして日本に帰る日となった。
昨日、列車でモンペリエに到着した。今日は列車に乗って、マルセイユへ。
ここ南フランスの一軒家はみな同じような色をしている。茶色と橙色の間のような色をした屋根に、灰色の壁。マルセイユの駅の周りに立ち並んでいた家々は、その系譜の中にあるのだが、屋根の瓦がところどころ取り替えられており、色が違っていた。それが前歯が抜けた人の顔のような間の抜けた印象を与え、うらぶれた雰囲気を漂わせていた。
マルセイユから飛行機でパリのシャルルドゴール空港に着くと、多くの日本人旅行客がいた。ここに来ると急速に日本に近づく気がする。明日には東京だ。

 


 

 

 

2004年6月13日


ずっと前からカタルーニャGPに行ってみたいと思っていた。今回は最高峰のモトGPクラスに、セテ・ジベルノーというチャンピオンを狙える地元のスペイン人ライダーもいる。盛り上がらないわけがなかった。
サーキットには十万人以上の人間がつめかけた。その中で、250ccクラスでは、スペイン人のペドロサがフランス人のデ・プニエに競り負け二位。
メインとなるモトGP、日本の玉田誠は、スタートからしばらくは好位置を保っていたが、イタリアと同じように突然姿を消した。圧倒的な声援を背にセテは、前半は首位を走ったが、最後はイタリア人のバレンティーノ・ロッシには及ばなかった。
観客たちは軽い失望をしながらも、オートバイを速く走らせる才能と同じぐらいに人から愛される才能をもったバレンティーノに暖かい拍手を送った。
オートバイレースが人気を博する国のサーキットの雰囲気を堪能することができた一日だった。
しかし…。
十万人が集まれば、当然周囲の道路は混雑する。その混雑ぶりは想像以上で、レースが終了して二時間経っても、メディアセンターからタクシーを呼ぶことができない。この日の夜の列車で、フランスに戻るつもりでいたが、結局スペインに一泊足止めすることになってしまった。

 

昨日の夕方、雨が降ったせいか、昨日一昨日ほどの暑さではなかった。
「ペドロサ、危ない気をつけろ、後ろからデ・プニエが追ってきているぞ」などと、地元ライダーを贔屓するサーキットの場内放送を聞きながらレースを見るのは楽しい。


 

 

 

2004年6月11日


一昨日、夕方の列車でバルセロナに入った。バルセロナで一泊し、昨日にカタルーニャGPの行われるサーキットに近いグラノージャスに移動した。
そして、今日は朝からサーキットに来ている。知り合いに紹介してもらったスペイン人のフォトグラファーたちと行動を共にして、色々と便宜を図って貰っている。
彼らは、キャプションを英語でつけなければならないらしく、「英語で“汗を拭う”ってどう言うんだ」とか「ウィリーってどう綴るんだ」と僕に尋ねた。外国人と見れば英語が出来ると思ってしまうのは万国共通なのか。

 

初日の予選が終わった後のプレスセンター。フォトグラファーたちは、デジタルカメラで撮影した写真に修正を加えて、インターネットで送っている。
予選初日の最終ラップで突然、日本人の玉田誠選手が三位に入った。スペイン人フォトグラファーたちは、「タマーダの写真がないぞ! お前撮ったか」と仲間に尋ねていた。
名誉のために付け加えておくと、写真真ん中のAP通信フォトグラファー、仕事熱心なベルナットは玉田誠選手の写真を押えていた。


 

 

 

2004年6月9日


相変わらず移動続きの日々−−。
イタリアからモンペリエに戻ってきた翌日は、ニームへ。
ニームのハンドボール専用体育館まで田場君のチームの練習を見に出掛け、そのまま田場君とチームメイトのビビと三人でバールでビールを飲み、次は僕が持ってきた泡盛を飲み…最後はニーム産のロゼワインを飲んでいた。

 

ニームからモンペリエに戻るTGVの食堂車にて。


 

 

 

2004年6月7日


夜中の零時半の列車に乗ってフィレンツェを後にした。
フィレンツェはというと−−駅のすぐそばに宿泊していたせいもあるだろうが、観光客ばかりで小汚い街、そして物乞いが多いというのが正直な印象だった。
ムジェロの辺りも、確かに平穏な農村風景ではあった。ただ、モンペリエの近くにあるそれほど名前は知られていない村落の方が、僕には美しく感じた。イタリアとフランスの国力の差があるのだろうが、イタリアの方がどうも薄汚れて見えるのだ。フィレンツェにせよ、トスカーナにせよ、うまく名前で商売している気がした。僕の意見を参考にする人などはあまりいないだろうが。
さて。
フィレンツェからピサ、ピサで列車を乗り換えて夜行列車でニースへ向かった。夜が明けると左手に青い海が見えた。青い海に見入っていると、美しい街が現れた。モナコだった。
豪華客船、無数の白いヨットが停泊していた。青い、青い海に面した岩場に建てられた家。
これまで僕が一番好きなのは、リオ・デ・ジャネイロに飛行機で降り立つ時、見える風景だった。ところが列車から見えるモナコの街もかなり美しい。
こんな街に住むのは一つの理想だ。お金を持ったらここに家を買おう−−そんなことを夢想させる街だった。
しかし…。
冷静に考えれば、一週間二週間はのんびりと過ごせるだろうが、自分の性格を考えれば一ヶ月も経つと絶対に飽きてしまうだろう(本当に冷静に考えれば買えるのか、
どうかという話になるのだろうが)。恐らくアフリカで埃にまみれて古いバスに乗っている自分を今度は思い浮かべるだろう。
そう、僕がフランス語を勉強しているのは、フランスが気に入っているのが第一だが、それ以上にアフリカを旅することを視野に入れているからだ。アフリカにはスペイン語圏はなく、ポルトガル語圏だと、モザンビーク、アンゴラ、ギニアビサウなどしかない。多くの国ではフランス語が通用するので、フランス語の習得は不可欠なのだ。
モナコには、誰か知り合いのスポーツ選手などに家を買ってもらい、一、二週間ほど借りるのが一番なのだろう。そんな日が来ることを願おう。

 

ニースからマルセイユ、マルセイユからモンペリエとフィレンツェを出てモンペリエに着くまで十七時間。モンペリエに戻ってくるとほっとする。


 

 

 

2004年6月5日


昨日バルセロナからミラノに到着した。
この前にイタリアに来たのは、ずいぶん前になる。cobaの撮影旅行に同行した1999年のことだから、もう五年になる。
昨日ミラノからすぐに、フィレンツェに移動。今日は朝からモトGPの行われている、ムジェロに出掛けた。
パドックパスの受け取りが、サーキットの一角に設置した受付などではなく、近くにあるバールの二階で行われるところはさすがイタリア。完璧な運営を心がける日本では考えられない。
パドックパスを受け取って、映画「トスカーナの休日」に出てきそうな農村地帯を歩いていると、尖った重金属音が聞こえ、サーキットが見えた。
鈴鹿、もてぎは何度か行ったことがあるが、国外でオートバイのグランプリを見るのは初めてのことだ。

 

芝生に寝ころびながら午後の予選が始まるのを待つ観客たち。太陽の光は強く、気持ちがいい。
イタリアは、バレンティーノ・ロッシの母国である。ロッシの青色のマシンが通過すると、歓声が沸いた。


 

 

 

2004年6月3日


サンチャゴは珍しく青い空が広がっていた。ラコルーニャから乗ってきたタクシーの運転手と話をしながら、今回は韓国人や中国人に間違えられることがなかったとふと思った。
モンペリエ・スポーツ・クラブでのサッカー、そしてラコルーニャでもサッカー留学生の練習に三日連続して参加して、かなり日焼けしている。国籍不明のアジア人と思われても仕方がないと思うのだが…(昔、ペルーでスペイン人から「キューバ在住の中国人」と勘違いされたことがある。日焼けしており、スペインのものではないスペイン語を話していたせいだと思う。)。
それは僕が多少でもこぎれいな格好で移動するようになったためなのか、それともスペイン人たちが日本人とほかのアジア系の国の差を理解するようになったのか。
サンチャゴからマドリッド、飛行機を乗り継いでバルセロナへ。
バルセロナから夜行列車でイタリアのミラノに向かった。

 

ミラノに向かう列車に乗っていた、アメリカ人のバックパッカーの女の子。
彼女たちと同室で、ミラノまで楽しい時間を過ごした…というのは嘘で、実際は彼女たちは隣の部屋。同じ部屋には、イタリアに出稼ぎに行く、パキスタン人二人とカメルーン人という濃い男たちだった。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.