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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2005..........2004..>> 12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 1..........2003

 

 

2004年9月19日


椅子の上で大きく伸びをした。
帰国後に連続していた入稿、校了がようやく終わった。
一般には〆切という言葉を良く使うが、これは原稿を出版社に渡す入稿のことを指す。刷り上がったゲラ刷りに朱を入れて戻すのが校了という作業で、〆切が終わっても校了が終わるまでは息が抜けない。
一ヶ月に渡る出張旅行の前は準備でばたばたとしており、戻ってからは、もてぎGP、そして入稿校了。ようやく明日から、軽い気持ちで街を歩くことが出来る。

 

仕事部屋の壁。
毎年の年賀状に混じって貼り付けられた『VS.』(バーサス 光文社十月十五日発売)の校了紙。


 

 

 

2004年9月19日


太陽の日差しは強く、人々はタオルを頭からかぶって、がらがらの観客席に寝そべっていた。
九月十七日から十九日まで、オートバイのモトGPが栃木県の「ツインリンクもてぎ」で行われた。二輪の世界一を決める大会、日本製のオートバイが力を持ち、今年に関しては最高峰のクラスで日本人ライダーが活躍している。
考えられる好条件が揃っているにも関わらず、観客席には空席が目立った。
今年は、五月にイタリア、スペインと熱狂に溢れていたサーキットを取材している。それと比べると寂しい限りだった。
 モトGPには、マシンの排気量によって、125cc、250cc、モトGPと三つのカテゴリーがある。近年は、125ccと250ccは、モトGPへステップアップするための、舞台となっており、モトGPがオートバイライダーにとっての世界一のレースである。そのモトGPで、日本人ライダーが序盤から素晴らしい走りを見せた。 ホンダの玉田誠は、王者バレンティーノ・ロッシとトップ争いを繰り広げ、カワサキの中野は三位を守った。
 この週末、プロ野球はストライキを決行した。僕もこれまで野球選手を取材してきたことがある。他の競技のアスリートと比べると、やはり「人間」としての質は落ちる場合が多い。
理由は簡単だ。花形スポーツである野球選手は、子供の頃からひたすら野球に打ち込んできた。選手に考えることを停止させて、言うなりになれと教える指導者も多い。そうなると、常に「先輩や先生、周りが助けてくれる」と、子供の頭脳のまま大人になっている選手は多い(現在はサッカー界がその状態に近づきつつある)。
その結果として(全てではないが)ひたすら自分のことだけを考え、年俸を吊り上げ「適正価格」以上をもらい続けてきた選手たちを生み出した。
片や、親会社からの出向してきた無責任な老害経営陣−−。
僕はどちらの肩を持ちたいとも思わない。
そんなスポーツと社会を巡る、晴れない気持ちを、玉田と中野の走りは吹き飛ばしてくれた。ドメスティックで釈然としないプロ野球よりも、モトGPは純粋に個人とマシンの力量が出るので、ずっと面白い。何より相手は世界だ。がらがらの観客席からも熱気が感じられた。

 

レース終了後、ホンダの玉田選手のパドックにて。このつなぎで彼らは三百キロを超える速度で走っている。


 

 

 

2004年9月14日


旅芸人のような取材旅行--。
今回の移動をまとめてみると、成田→ロサンゼルス→サンパウロ→アスンション→サンパウロ→パルメイラ・ド・エスチ→サンパウロ→ポルト・アレグレ→サンパウロ→カンピーナス→サンパウロ→リスボン→ラコルーニャ→バルセロナ→ニーム→バルセロナ→ラコルーニャ→バルセロナ。そして今日、ミュンヘン経由で成田に帰る。
書いているだけでうんざりするような行程を辿ってきた。厳しい移動ではあるのだが、体調はいい。ただ、戻った後の忙しさを考え、憂鬱な気分になってくる。
そんな僕の気持ちを映し出すように、バルセロナは夜明け前から雨が降っていた。

 

ミュンヘンの空港にて。
ミュンヘンの空港は真新しく、静かだった。1970年代に、人々が想像したような二十一世紀に近い感じ、と言えるかもしれない。僕には無機質な感じで、居心地はあまり良くなかったのだが。ルフトハンザらしく、搭乗券に書かれている時間より前に、搭乗が始まった。ラテン系の航空会社に慣れていた僕は、最後に搭乗した客となっていた。


 

 

 

2004年9月12日


ニームでの滞在は二日とも朝まで飲むことになってしまった。バルセロナへ戻る車の中では熟睡。バルセロナで一泊して翌日に再びラコルーニャ。昨日は何時間寝たのかわからないほど、昼間も夜もベッドの中にいた。おかげで体調はずいぶん回復した。朝九時に起きて、リアソル海岸から、岬の突端にあるヘラクレス塔まで五十分かけて走ってきた。海は青く、気持ちがいい。太陽が昇ると、最後の夏の太陽を楽しむ人たちが砂浜に横たわっていた。

 

気温はそれほど高くないので、水の中に入る人は少ない。今日は日曜日。水着となって(男性はもちろん、中には女性も胸を露わにして)夏の終わりの太陽を全身で楽しんでいた。


 

 

 

2004年9月9日


昨日。
昼前にラコルーニャの街を出て、サンチャゴ・デ・コンポステーラに向かうと、いつものように雨だった。サンチャゴから飛行機でマドリッドへ。ラコルーニャは長袖が必要な程、肌寒かったが、マドリッドは同じ国とは思えない程の暑さ。
マドリッドで飛行機を乗り換えてバルセロナへ。バルセロナも強い太陽が照りつけていた。バルセロナからレンタカーを借りて、国境を越え、フランス南部のニームへと到着したのは、夜になっていた。
今日、ニームはやはり暑い。九月になっているのに、まるで真夏だった。

 

ニームの街にある円形劇場にて。何かの催し物の準備が始まっていた。


 

 

 

2004年9月5日


昨晩、サンパウロを出て飛行機で大西洋を越えて、ユーラシア大陸の西端、ポルトガルのリスボンに到着。
時計を四時間進め、日本との時差は八時間となる(ブラジルは通常十二時間の時差、昼夜を逆転すると日本と同じ時刻なので、計算するのは楽だった)。
前回、リスボンに降りたのは2003年の初め、まだ寒い時期だった。あの時は、リスボンの空港から出ることはなく、そのままポルトに向かった。今回は、飛行機は昼前に着き、夕方の飛行機でスペインのラコルーニャに向かうことになっていた。時間があったので、街まで出ることにした。
リスボンの街を歩くのは、実に四年半ぶりのことだ。
出版社を辞めて、最初に向かったのがリスボンだった。当時は、ポルトガルがユーロ加盟前で、建物は薄汚れており、壁や銅像には落書きが目立った。以前ポルトに行った時にも感じたことだが、ポルトガルはユーロに加盟したことで、富が流れ込んで、街が綺麗になっている。
ただ……街を歩いているのは、出稼ぎに来ているアフリカ系の黒人と多数の観光客然とした外国人。大航海時代の“過去”で商売をしているという印象は変わらない。
リスボンの空港に戻り、スペインのラコルーニャ行きの飛行機の出発を待った。搭乗口を抜けて、バスに乗ると乗客は十人強しかいない。これで経営が成り立つのかと思ったら、飛行機は定員十九人のプロペラ機だった。
ラコルーニャに着いたのは夜、時計をさらに1時間進めなければならない。時差と移動の時間で、日曜日をまる一日失ったような、損をした気になった。

 

街を走る市電。この街は写真に撮ると悔しいほど、魅力的に見えてしまう。


 

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