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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
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2004年8月31日


月曜日朝の飛行機でサンパウロを出て、ポルトアレグレという街に到着。ポルトアレグレは、ブラジルの南部にあたり、アルゼンチンとウルグアイに近い。サンパウロとは言葉遣いも、文化もアルゼンチンに近い。
今回ポルトアレグレを訪れたのは、この街の貧民街とその支援する施設を取材するためだ。
もちろん、貧民街は危険なため、普通に入ることは難しい。ジュビロ磐田にいたブラジル代表の元キャプテン、ドゥンガがこの街で最も大きな貧民街、レスチンガ地区で、貧民街の子供を手助けする施設に関わっている。そこで働く人たちが案内してくれたのだ。
子供たちは、明るく、人懐っこい。しかし、彼らの母親たちはこう言う
「この地区で子供を“まとも”に育てるのは困難だ。街角で悪いことばかり教わってしまうからだ」
 僕は物事を斜に見る癖がついているのかもしれないが、日本でボランティアと聞くと、政治的意図のある人間が携わっているか、あるいは自己満足でやっているのだろうと、正直なところ、自分が腰を上げる気にはなれなかった。ブラジルでは、日本のように均等に富が回っていないことは理解している。この地区の子供たちのまっすぐな目を見ていると、何かをしなければならない、ドゥンガたちの気持ちを僕なりに、理解した。

 

貧民街の子供たち。この後、僕たちは施設で、子供たちに“折り紙”を教えた。彼らは日本の子供のように落ち着きはなかった。また、飲み込みの早い子とそうでない子の差が激しい。善と悪、天才と落ちこぼれ、富める者と貧する者−−その差が他の国と比べて、ブラジルは大きい。ブラジルという国の難しさがそこにも見えた。


 

 

 

2004年8月26日


サンパウロ・バハフンダのバスターミナルを夜の十時四十五分に出たバスは、西に向かって走り出した。ターミナルを出ると、黄色を帯びた街灯の光りの間をバスは走った。
七年ほど前、僕はこんな風に南米大陸をバスで旅していた。南米大陸、特にブラジルは鉄道網が存在せず、バスが人々の移動の中心となっている。バスにも様々なクラスがあり、今回は仕事のため、一番高級な“レイト”と呼ばれるクラスのバスの乗った。
僕が七年前に二千キロ離れたポルトベーリョに行く時のバスは“コムン”という最低クラスだった。空調設備がなく、固い椅子で背もたれは倒れなかった。レイトは、冷房はもちろん、飛行機のビジネスクラスに近い大型の椅子で、背もたれは水平近くまで倒れた。
ただ、窓から見える風景は変わらない。前と同じように、ぼんやりとバスの窓から外を眺めていた。
こんな風にどこかに移動する人生−−。どこかを彷徨っているのが僕には一番しっくりとくる。因果な人生だとは分っているが…。
飽きずに外を眺めているわけにはいかない。明日は朝から仕事だ。カーテンを閉めて、目をつぶった。

 

翌日の朝、目的地のパルメイラ・ド・エスチに到着した。静かな街で、信号は一つもない。


 

 

 

2004年8月24日


到着した日は寒くてどうなることかと思ったが、昨日今日とアスンションは暖かい日となっていた。
日本にいると、朝から晩までオリンピックのニュースがテレビを占拠しているが、ここパラグアイでは様子が違う。パラグアイは小さな国で、ほとんどの男子が興味を示すスポーツはサッカーのみ。他のスポーツに人材が流れることはない。
オリンピックでは過去にメダルをとったことはなく、今回のアテネにも数種目にしか選手を送り込んでいないので、盛り上がれというのが無理なのである。
唯一の例外がやはり、サッカー。ブラジルを敗って南米代表となったパラグアイは、未だ勝ち進んでおり、今日は準々決勝でイラク代表と対戦することになっていた。ここで勝ち抜けば、メダル。歴史的な勝利となるのだ。
代表の試合がある時はいつものことだが、朝から街のあちこちで、パラグアイの赤と白の縦縞のユニフォームが売られ、道を歩く人もそのユニフォームを着た人が目につく。
僕は午後の飛行機でサンパウロに向かうことになっていた。出発前に、スーパーマーケットに買物に出掛けると、客はまばらで、店員たちは家電売り場にあるテレビの前に集まっていた。大きな歓声が上がったと思ったら、パラグアイが先制した。
五輪が始まる前、『SPA!』という雑誌で“パラグアイは優勝を狙えるチーム。特にフォワードのカルドソは全盛期のロマーリオに匹敵する得点能力がある”と書いたのだが、まさにそのカルドソが得点を挙げていた。

 

サンパウロ、リベルダージ地区の夕暮れ。提灯風の街灯は和風と呼ぶべきなのだろうが、日本には存在しないものでもある。


 

 

 

2004年8月21日


気温は三十度の後半、たっぷりと湿度を含んだ空気。史上最も暑い夏は、僕が日本を出る日まで続いていた。飛行機で二十四時間。サンパウロのグアリューリョス国際空港に到着が近づくと、機内放送はサンパウロの気温が十二度であると告げた。飛行機がサンパウロに降りた時には、太陽は昇り、十五度まで気温は上がっていたが、それでも日本の猛暑に慣れた身体には寒く感じられた。
しかし、今回の最初の目的地はサンパウロではない。サンパウロで飛行機を乗り換えて、パラグアイのアスンションへ。待ち時間を合わせて三十時間。アスンションは曇り空、サンパウロよりも肌寒い。それも当然のことだろう。太陽が落ちると、街の温度計は十三度になっていた。

 

アスンションは首都だというのに、馬車が走っている。冬の冷たい空気の下、馬丁は服を着込んでいた。空気が乾いているため、寒さは身にしみるのだ。


 

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