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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2005..........2004..>> 12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 1..........2003

 

 

2004年5月30日


ラコルーニャの街からバスでフェロールへ出掛けた。今日はスペインリーグ二部Bに所属するラシン・デ・フェロールとカステジョンの試合が行われることになっていた。
着いた日のサンチャゴの天気が嘘のように、青い空が広がっていた。
ラシン・デ・フェロールは、日本人との繋がりが深い。かつて、三浦知良選手がシーズンオフのキャンプに参加、その後は現横浜Fマリノスの安永がレンタル移籍、昨年は現大分の木島が練習に参加していた。
今回は一昨年にフェロールと契約して、レンタルでベネズエラのイタル・チャカオというクラブに行っていた清田孝司と一緒に出掛けた。彼は半年間、フェロールで練習していたため、選手を知っている。彼の解説付きというわけだ。
フェロールは現在、二部Aに上がるためのプレーオフに参加している。昇格が掛かっているせいか、試合は緊張のある、いい試合となった。微妙な判定のペナルティでフェロールが勝ち越し、結局三対一で終わったが、面白い試合だった。

 

得点した瞬間のスタジアム。
いつも思うことだが、スペインでもブラジルでもサッカーを見るとき、得点が入ると子供のように喜ぶ。


 

 

 

2004年5月29日


ロレト・デ・マールからモンペリエに戻って(マニュの車が故障してしまい、タクシーで三時間かけて戻ってくる羽目になった)、抱えていた原稿を片づけ、移動の準備をしていた。
昨晩、列車でモンペリエからバルセロナに移動。バルセロナ在住の知人と、カタルーニャ名物のかたつむりを食べ、カバを飲んだ。そして朝一番の飛行機で、マドリッドを経由し、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ。
僕の中では、勝手に世界三大サンチャゴというと呼んでいる。
サンチャゴ・デ・コンポステーラ、サンチャゴ・デ・キューバ、サンチャゴ・デ・チリの三つの都市のことだ。僕は三つとも行ったことがある。だからといって、何か意味があるわけではないのだが。
さて、サンチャゴ・デ・コンポステーラは巡礼の街として知られている。この街は不思議なことに、いつ来ても雨が降っている。この日も例外でなく、空は黒い雲に覆われており、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

 

バルセロナの空港にて。
初めてバルセロナに来たのは、2000年のことだった。その時は、人が多くてあまり気に入らなかった。最近は知り合いが色々と良い店を紹介してくれることもあるだろうが、気に入っている。モンペリエはいい街だが、ちょっと静かすぎる。たまに都市の猥雑さが懐かしくなる。バルセロナはそれを満たしてくれる。


 

 

 

2004年5月22日


この日の朝は、三晩飲み続けたため、さすかにみんなも大人しい。同室の仲間は、アスピリンを水に溶かして飲んでいた。
「サッカーと酒で身体全体がダメになっている。アスピリンを飲んだので、頭だけはすっきりした」
とのこと。
決勝戦を見たが、確実にスポーツクラブよりも水準の低い試合だった。

 

この日の夕方、モロッコ人のドリスと婚約者と買物へ。
ドリスの兄が僕の友人のマニュと同年輩で、モンペリエで一緒にプレーしていたという。ドリスの兄というのが名選手で、ニューヨークコスモスにもいたらしい(ドリスもブンデスリーガでプレーしてたが)。ドリスはコーチとしてマニュの息子を教えていた。こうした歴史のある国は強い。


 

 

 

2004年5月21日


我らスポーツクラブは明らかに他のクラブからマークされていた。相手チームは他のチームの時と違い、真剣に当たってくるのだ。この日の試合で、スポーツクラブは敗れてしまい、予選リーグ敗退。勝ったベシエスのチームは両手を挙げて大喜びだった。相手がマークしてきているのに、昨日も朝まで飲んでいたメンバーが多数。これで勝てるわけもない…。

 

こんな風に昼間からパスティスを飲む。フランス人はワインなど、弱い酒しか飲まないと思っていた。確かに、彼らはウォッカなどの蒸留酒ではなく、パスティスやワインを飲む。その時間が長いのだ。昼から飲み始めて夜中、朝まで飲み続ける。この日もみんな結局朝まで飲んでいた…。


 

 

 

2004年5月20日


昨晩、部屋に帰って寝たのは四時半になっていた。
ホテルのバーでパスティスを飲み始め(お金は一度も払うことはなかった。どこからかグラスが回ってくるのだ)、パーティ会場ではUEFAカップの決勝を見ながらワインを飲んだ。二百人以上が集まった中で、僕は唯一フランス語を満足に話せない人間だったが(東洋系の血を引いていると思われる人が数人いたが、フランス生まれだろう)、みんなから声を掛けられて有名人になっていた。僕の話すことの出来るスペイン語で何とか話してくれる人、フランス語で構わず話しかける人−−
パーティ会場を出て、ブラジル人(娼婦?)のいるディスコに流れた。ブラジル人女性たちと僕がポルトガル語で会話すると、フランス人たちはこの時ばかりは羨ましそうな顔をした。
それでも終わらず、ホテルの近くにあるディスコ・ハリウッド(なんてベタな名前なんだ)に行き、四時まで飲んでいたのだ。
それで翌日十時からの試合で力が出せるはずもない。芝はぬかるんでおり、足元が重かった。午前中の第一試合では、前半途中から交代で左サイドに入った。
時差、ここ一週間の不摂生、昨日の飲酒−−とてもサッカーをするような状態ではない。結局得点には絡むことはできなかった。それでも試合は勝った。
午後の二試合目は、後半から入ったが、やはり左サイド。
自分はフォワードなのだと言っても、サイドにされてしまう。確かに自分の身長、177センチだとフランス人の中では決して大きくない。小型とまでは言わないが、骨格を考えるとやや小振りな選手なってしまう。
フランスのサッカーはかなり当たりが強く、身体の頑強な選手が多い。このレベルでも、だ。その中でやっていくには、技術が格段に優れているか、足が速いか。僕は前者ではなく、後者のスピードを生かすしかない。全般的にフランス人はそれほど足は速くない気がした。
引き分けていたため、前の選手の人数を増やした最後の五分だけフォワードに入ることができた。フォワードとしてボールに触れたのは一度だけ。試合は引き分けで、当然零得点。世界中で権威の失墜している日本人フォワードの名をあげることは出来なかった。

 

初公開。スポーツクラブのロッカー風景。


 

 

 

2004年5月19日


昨日の午後、飛行機でモンペリエに到着した。今回はエールフランスに珍しくほぼ定時にモンペリエに到着した。
今朝八時半にモンペリエを出て西へ。
バルセロナに近い、ロレト・デ・マールという海沿いの街でサッカー大会があるのだ。モンペリエに来る時には試合に出ている、モンペリエ・スポーツ・クラブ(以下スポーツクラブ)の一員として大会に参加することになっているのだ。
前にここでも書いたが、スポーツクラブはモンペリエの下部組織に所属していた選手、元プロの選手が何人もおり、水準は高い。この大会では何度も優勝している。プレッシャーの掛かるところである。
大会自体は明日の午前中からだが、友人のマニュが大会の事務局をしているため、早めにロレト・デ・マールに入らなければならなかった。夕方からUEFAカップの決勝(マルセイユ対バレンシア)をみんなで見て、酒を飲むことになるらしい。

 

ロレト・デ・マールは地中海に面したリゾート地である。フランス国境に近いため、歩いているのはフランス人ばかり。スペインの最低賃金はフランスの半分しかない。フランス人にすると物価が安く、ちょうどいいリゾート地なのだろう。


 

 

 

2004年5月17日


雨の東京を出てパリへ。
一ヶ月半ぶりのパリ。それまで一度も訪れたことがなかったというのに、続く時は続くものだ。
今回はオートバイのモトGPの取材が主だが、他にも幾つか進行しているものがあり、早めに欧州に入ることにした。
これから約四週間、フランス、スペイン、イタリアを回ることになる。
パリは東京とは違い、晴れた空が広がっていた。

 

パリに着いた夜、知人たちとワインを飲む。ワインは進み、店じまいの時間になってしまった。
ウェイトレスに可愛い子が多い。店主の趣味だろうという話になった。


 

 

 

2004年5月10日


今日は専修大学へ。「現代社会とスポーツ」という通年の授業の中で、「スポーツ・ノンフィクションの現場」という題で講義をすることになったのだ。 もちろんスポーツ・ノンフィクションといっても色々種類もある。なにより自分がまだまだ勉強途中だということも理解している。ただ、僕が実際に苦闘している姿、そのことを率直に話すことは学生にとっては何らかの意味があるかもしれない、ということで引き受けることにしたのだ。 というのも、ここ数年スポーツライターになりたいという相談を良く受ける。僕はスポーツライターという立ち位置をとっていない。相談に乗ることはできないと断ってきたのだが、とにかく多い。スポーツ選手と会えて、華やかな職業に思えるのだろう。実際はそんなことはないのだが。 教室は五百人ほどで満席だった。そもそも僕は人を教えることに向いていない。大学時代にアルバイトをした家庭教師も塾教師も長く続かなかった。その上、パソコンの接続の不調で、せっかく作ったレジュメをスクリーンに投影できない−−という出だし。 早口にならないように、わかりやすく話すようにと気をつけていたのだが、やはり上手くはできなかった。ただ、僕が話し終わった後、質問がたくさん来たのは嬉しかった。どれもちゃんと話を聞いていてくれたことが判った。授業が終わった後も、直接何人もの学生が質問に来た。彼らの真っ直ぐな視線がちょっと照れくさかった。 何年か後、僕の講義を聴きましたよ、などと言ってくれる人間と仕事が出来れば、嬉しい。人を教えることの喜びを少し知った一日だった。

 


 

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