週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。

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201003

2010年3月27日

飛行機の便の関係で、サンパウロに足止めされている。
サンパウロには、97年6月から1年間アパートを借りて住んでいたことがある(そのうち半分以上は、アマゾンなどブラジル国内、南米大陸全十三カ国をバスと船で回っていたので、サンパウロにいたのは半年未満)。
その後も年に一度か二度のペースで仕事で来ており、もう見て回るところはない。
そもそも、ここは、リオのように、散歩しているだけで爽快になる街ではない。今回は、毎日蒸し暑く、午後に大雨が降った。早く出たくて仕方なかったのだ。
ようやく明日、サンパウロを離れる。出発するとなると、写真を撮りたくなった。

ブラジル

ブラジル

ブラジル

ブラジル

ブラジル

2010年3月22日

昨晩は、パカエンブーでサントス対イトゥアーノの試合に出かけた。
今回のブラジル出張の楽しみの一つが、サントスの新星ネイマールを見ることだった。ところが…… 。日本では考えられないことだが、シーズン中にサントスはニューヨークに遠征、レッドブルと親善試合をしていた。
ネイマールはそのメンバーに入っており試合を欠場することになっていた。さらに、ロビーニョも怪我。パウロ・エンヒッケガンソ≠フ力がどの位なのか見極めようと軽い気持ちで出かけることにした。
イトゥアーノには、ジュニーニョ・パウリスタ、そしてホッキ・ジュニオールがいた。ジュニーニョ は、チームをマネージメントしながら試合に出ているのだ。
試合開始早々、ジュニーニョは相変わらずの斬れのいいドリブルを見せた。フリーキックからイトゥアーノが先制。
しかし、試合はそこからだった。
ガンソはとにかく凄い。久しぶりにこれだけ才能のある選手を見た。まるで、スピードのあるリケルメだった。ボールのキープが巧く、ドリブルが鋭いため、ファールでしか止めることができない。前半途中、イトゥアーノの選手がガンソを止めるために二枚のイエローカードで退場。これで試合は決まった。
ガンソの他、サントスの選手は全員がドリブルが巧い。まるで、遊びのサッカーのように簡単にパスを繋いで攻める。ヒールキック、ワンツーこれこそフッチボウ。
日本や欧州のサッカーを見ているとうんざりすることもあるが、やはりサッカーはこういう競技なのだ。サントスの若い選手たちは、本当に楽しんでプレーしていた。
ここにネイマールとロビーニョが入れば一体どうなるんだ! 試合が終わると9対1。凄い試合だった。
サントスのサッカーにケチをつけるのは簡単だ。守備はザル。隙だらけだ。
守りに守って、勝つのもサッカー。攻めまって、美しく散るのもサッカー。どちらを選ぶかは哲学の違いだ。後者を貫くブラジルは素晴らしいと思う。
もっとも。
ブラジルでは、素晴らしい才能ある選手は、高額の移籍金で欧州に売られていく。少し前、サントスには、ロビーニョとジエゴ、エラーノがいた。彼らは全て欧州に行き、ゼロからチームを作り上げなければならなかった。ブラジルの凄いところは、そうした選手を売却≠オても、次々と才能が現れることだ。
この素晴らしいサントスを見られるのもあと僅かだろう。それでもいい。そもそもサッカーは、一瞬の完全。この切なさがまた良いのだ。

ブラジル

2010年3月18日

昨日は、サンパウロ州のヒオクラロ、リメイラを回って取材してきた。
幹線道路から見える看板、ドライブイン、ガソリンスタンドは真新しい物が多い。もはや、欧州やアメリカ合衆国の風景と変わらない。ここ数年でブラジルは大きく変わりつつある。W杯、オリンピッ クを控えて、さらに変わっていくのだろう。猥雑でいい加減なブラジルが失われつつあることが少し寂しい。

以下は、twitter (http://twitter.com/tazakikenta) にアップした出来事の詳細。

リメイラから、サンパウロに戻る途中、ドライブインに入ると、若い女性から声を掛けられた。
金髪で、シースルーの黒い服、黒いブラジャーが透けて見えた。男とは哀しいもので、若い女の子から話しかけられるとついつい聞いてしまうもの。
「ねぇ、枕買わない?」
「枕?」
「そう、あそこの車で売っているの」
駐車場の入り口に、四駆の車の後ろの扉が開いており、白い物が積んであったことを思い出した。あれは枕だったのだ。
辺りを見回すと、同じように若い女の子が、車から出てくる人に声を掛けていた。新手の販売方法なのだ。 これぞ、本物の枕営業??
ブラジル、恐るべし。

ブラジル

ヒオクラロで見かけた古いフォルクスワーゲン。ブラジルで製造していたSP2というモデルだ。SPとは恐らくSaoPauloのことだろう。

2010年3月14日

昨晩遅く、リオ・デ・ジャネイロに到着。飛行機を降りると、蒸し暑い空気に包まれた。
タクシーで市内に向かっていると、遠くで雷の音が聞こえた。道路は雨で黒く濡れている。
南半球のブラジルは夏まっさかりだった。
飛行機に長く乗っているとむくみが出てくる。朝早く起きて、コパカバーナの海岸を走った。気持ちがいい。街頭の温度計は、朝は二十七度、午後には三十六度となっていた。
夕方、突然大粒の強い雨が降りはじめた。雷で空は断続的に明るくなった。雨はコンクリートを激し く叩き、とても歩いていられるような状態ではない。
そんな中、タクシーでフラメンゴ対バスコの試合が行われるマラカナンへ。アドリアーノとワグネル ラブのいるフラメンゴの戦いぶりを楽しみしていたが、居眠りしてしまうほど退屈な試合だった。試 合が始まるまで、歩いていられなほどの突風が吹いていた。ピッチには水たまりが出来ており、そもそもサッカーをする状態でなかったのだろう。

リオ

昼間バールで食べた、スープ。周りの男たちが食べていたので、尋ねてみると「ピラニアのスープ」 だという。ピラニアには売春婦の意味もある。ふざけているのかと思ったが、本当だった。揚げたニンニク、香草の味が混ざって旨い。

リオ

雨のせいもあって、マラカナンは空席が目立った。それでも応援の勢いはある(といっても七万人収 容なので、三万人ぐらいは入っているかもしれない)。ジーコの似顔絵をあしらった大きな旗も振ら れていた。ジーコはもう長い間フラメンゴと関わり合いがない。それでも、ジーコは此処で敬愛され ているのだ。

2010年3月13日

予想しなかった場所で誕生日を迎えることになった……。
ロスの空港で、ビッグヒデこと、プロボディビルダーの山岸秀匡君とベティ鈴木に見送られながら、 ヒューストン行きの飛行機に乗った。ヒューストン到着予定時刻は19時52分、リオ行きの予定登場時 刻は20時10分。
出国審査を通らなければならない。急がねばと、ヒューストンに着き小走りで飛行機を降りた。出発 便の液晶画面を見上げてみると、便名の隣のゲート番号が消えていた。
悪い予感がした。
搭乗券に記してあったゲートの前には人が集まっていた。ブラジル人たちがポルトガル語で話しているのを聞くと。
「午後三時のパリ行きの飛行機が故障して飛べなくなってしまった。それで、俺たちが乗るはずだっ た便をパリ行きに回した。俺たちの飛行機は全く問題なかったのに、パリ便のせいで、飛ばないんだ 」
もう一度、出発便の画面を見ると、出発時刻が6時半になっていた。つまり、翌朝だ。
長い列に並び、宿泊ホテルのバウチャーを受け取った。当然のことながら、空港内にあるホテルのレセプションも長蛇の列。なんとか部屋に入り、パソコンを広げて連絡メールを書いていると、日付が変わり、42回目の誕生日を迎えた。

ロス

ボディビルダーは食事も仕事のうちである。山岸君は「時間が来たので」と大きなタッパーを空けて 食事を始めた。一日八回、決められた時間に食事をしなければならないという。 ちなみにこの量は一回分ではない。これを小分けにして食べるのだ。消化剤を飲みながら、筋肉に必要な栄養を流し込む。 食べることは過酷な仕事なのだ。

2010年3月12日

昨日、上海からサンフランシスコを経由して、ロスに到着。ベティ鈴木と久しぶりの再会。
雪が舞い凍えていた上海と違って、ロスは半袖の人が歩いている…。日本から着てきたダウンジャケットは空港内で浮いていた。

ロス

2010年3月11日

月曜日は、アズマや競艇の江口さんたち、平田ゼミの人たちと酒を飲んだ。楽しすぎて少々に飲み過ぎてしまい、アズマに追い立てられるようにタクシーに乗ることになった。
翌日の火曜日、二日酔いと戦いながら、羽田空港へ向かった。今回は羽田発で上海に向かった。
上海に着いて古い機体から降りると、震えるほど寒い。到着口まで乗客を運ぶバスの中に白い粉が舞っていた。粉雪だ。日本よりもずっと寒い…。その夜は、上海の知人たちとタイ料理へ行くことになっていた。
古い家屋を利用した、おしゃれな店が立ち並んでいた。
ただ サービスがひどい。モヒートを頼むと、出てくるまで半時間。
「あまり注文されないカクテルなので」という言い訳だった。
ミントの葉っぱを底で潰して、ホワイトラムと砂糖を入れる簡単なカクテルだ。ところが、出てきたグラスの中には、粉々になったミントが上に浮かんでいた。どうやって潰せば葉が浮かんでくるのやら。葉の生臭さが酒ににじみ出て、飲めたものじゃない。ヘミングウェイならば、机に頭を打ち付けるほどのまずさだ。
さっそく飲み物をワインに変えた。
昨日、水曜日は朝から打合せ等。夜は四川料理、辛くて旨い。こういう料理を作らせたら中国人は世界一だ。紹興酒が進む。
さて、
困ったのは、ツイッターが繋がらないことだ。知人の家でインターネットに接続したところ、ツイッターのサイトは開けない。mobilemeからの読み込みも異常に遅い。何かブロックしているのかもしれない。
今日、上海空港のビジネスラウンジで、再びブラウザーを開いてみるが、ツイッターには入れない。
iPodタッチで繋げてみると、無線ランが強制的に切断されてしまった。これが中国なのだろうか…。
みんながつぶやく≠ニ困る人がいるのだろう。

上海

2010年3月6日

今日、ハンドボールの琉球コラソンの今季最終試合が終わった。

コラソンについては書いておかなければならないことがある。
事実を、できるだけ簡潔に書くことにする。

昨年十二月あたま、琉球コラソン代表兼監督だった田場裕也の鬱病がひどくなり、突然行方をくらましたという。
支離滅裂な田場のやり方に嫌気がさしたこともあり、全てのスタッフがチームから去っていた。残された選手たちは事情が分からず、途方に暮れてしまったのだ。
次の遠征が迫っていた。
通帳の残高は底をついており、遠征費がない。
選手たちが遠征費を自費で負担するか、リーグ途中で参戦を諦めるか。
ところが、その肝心の決断をしなければならない田場が雲隠れしたため、選手たちは誰を頼ったらいいのか分からない状況だった。

ぼくは、コラソンの立ち上げから関わっていた。ハンドボール専門誌でコラソンの連載を書いていたこともあり、沖縄にいる選手たちから電話で相談を受けた。
話を聞いて、チームの存続は不可能だろうし、シーズン途中だが、解散するしかないと思った。
とにかく田場と話をしなければならない。しかし、何度電話を入れても、繋がらない。留守番電話に 入れても返事はない。電話に出る気が全くないようだった。
とにかく、誰かがこの困窮した状況を、リーグの事務局に報告しなければならない。
沖縄の選手たちと、電話でやりとりして、東京に住んでいるぼくが説明に行くしかなかった。

事務局に行く前に、ぼくは沖縄在住の田場家に電話を入れることにした。
事務局ではチームの存続について話をしなければならないだろう。田場と話ができない中、彼の法定代理人となりえるのは父親である。
父親に状況を話し、チームは解散するしかないだろうという見通しを伝えた。
田場家は、田場にすでに多額の金を貸していた。そして、そもそもチームを立ち上げることにも反対だった。これ以上、ハンドボールには関わりたくないという。当然のことだろう。
ところが。
事務局に行く当日朝、田場家から電話入った。 今季に関しては、自分たちが金を出すのでチームを存続させて欲しいと伝えてくれという。
田場はハンドボール一筋で生きてきた。ハンドボールを取れば何も残らないだろう。ハンドボール界 での息子の立場を守るために、借金をかぶるというのだ。
田場は三十歳を越えている、一人前の男だ。選手たちの人生がかかっている。その責任は彼がとらなければならない。
親がそこまで手助けする必要があるのだろうかと思ったが、ぼくにチームを潰すべきだと言う権限はない。
事務局にとっては、この申し出は渡りに船だっだ。
そもそも経営基盤の脆弱なコラソンを安易にリーグに加盟させたことが問題の始まりである。田場家の申し出を受け入れ、加盟金免除など特例措置で、なるべく負担を減らすことになった。

事務局に出向いたことで、ぼくは完全にコラソンに巻き込まれた。
とにかく誰か、沖縄で動ける人間が必要である。
GMとして登録されていた東長濱氏は、名前だけで、今季はチームに関わっていなかった。昨シーズン 終了後、彼は田場に愛想を尽かし、チームから離れていたのだ。ぼくは東長濱氏に電話を掛けて、戻ってくれるように説得した。
同時に、コラソンの実情を調べさせるととにかく滅茶苦茶。 経理関係の書類はなく、法人税の支払いは一度もしていなかった。
詳しく調べてみると、コラソンはそれなりにスポンサーを集めており、まともに経営すれば来季以降も存続することは不可能ではないことが分かってきた。
東京から事務処理を進めることに限界があった。そこで、リーグ派遣の形でぼくは一月末に沖縄に入った。

状況が好転していることが分かったのだろう、行方不明≠セった田場が姿を現した。
驚いたのは、ぼくや選手たちが、田場の父親から金をたかっていると触れ回っているということだった。
肝心な時に、選手を置いて逃げ出しておきながら、よくそんなことが言えると呆れてしまった。
元々田場は虚言癖があり、それが原因で人が離れていったという過去があった。
さらに落胆したのは、コラソンの運営をぼくに頼んだリーグ事務局の人間が、いつの間にか田場の言葉に乗ってしまっていたことだ。
田場家からお金を引き出したぼくは、けしからん、というのだ。
いつの間にか、話がすり替えられていた。
ぼくは会議ごとに会議録を作り、参加者に回している。だから、誰の言っていることが正しいのか、 すぐに分かる。
もう、うんざりだった。
W杯が近づいており、次の単行本の取材も次々入っていた。
そんな中で、時間を作って動いているのに、陰口を叩かれていることを知ると、怒るよりも、情けない気持ちになった。
沖縄に行った際に、税務処理を含めて、今季を乗り切る最低の処置は施してある。来季以降続けるかどうかは、当事者の選手が判断することだ。
一段落ついたこともあり、以降、ぼくはコラソンに関わらないという決心をした。

ぼくがコラソンのために動いたのは、選手のためだった。
経営は出鱈目だったにも関わらず、コラソンはコートの中で結果を出しつつあった。
無給で、恵まれない環境の中、選手たちは必死で戦っていた。だから、ぼくも手伝わなければと感じたのだ。
まともな人間がコラソン及びハンドボールに関われば、やりようはあると思う。
ただ……。
マイナー競技にはマイナーから抜け出せない理由があることを改めて感じた。

2010年3月1日

三月に入った。
昨日は静岡出張。寿司『七八』で食事をしたあと、駅まで送ってもらうと切符売り場の前には人が列を作っていた。
チリの地震の影響で在来線が運転中止、動いている新幹線に乗り換えていたのだ。
チリは、97年から98年に掛けて南米大陸を回ったときに立ち寄った。今回の地震の被害が大きかったコンセプシオンは通り過ぎただけだったが、バルパライソは、雰囲気が非常に気に入り、しばらく泊まっていた。
日本からの漁船も来ており、海沿いには船員向けのフィリピンバーがあった。寂れていていい感じの港町だったのだ。
チリの人々は親切で非常に良くして貰った。みんな無事でいればいいのだが…。

バルパライソ

バルパライソの坂の上と下をつなぐエレベーター。