週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。

INDEX  2011 « 2010 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 » 2009

201004

2010年4月26日

今日は、『辺境遊記』の打ち上げ。北京ダックに目がない、下田画伯のために『全聚徳』をセレクトした。
北京の本店には何回も行ったことがあるが、日本の店舗に行くのは初めて。行ってみると、ずいぶん様子が違う。かなり高級だ。
味は確かに旨い。そして値段も……。

デザインを担当してくれた山下リサさんなど、初対面の人もいたのだが、和やかな雰囲気。一緒に、物を作った仲間という感じだった。

出版不況らしい。確かに不景気を肌で感じる。しかし、既存の出版社が、横並びの下らない書籍、雑誌を濫造してきたことも間違いない。
『辺境遊記』は、韓国で印刷したことでコストを下げることができた。熱意があれば、安く良い物を 作ることができるはずなのだ(安ければいいわけではないが)。
残念ながら、(特にぼくの古巣である)大手出版社の人間からはその熱量が減っている気がする。だから、出版不況も当然なのだ。
それでも、ぼくたちは物を作っていかなければならないと強く感じ、仲間がいることを確認した夜だった。

頼れる兄貴分、ピッピさんこと水口晴幸さんの名言。
「最近の歌、Jポップもヒップホップでも歌詞に君は、一人じゃない≠チていう感じが多い。でもそれは嘘。人間は最終的に一人なんだ。それを理解した個人≠ェ集まれば強くなれる」

北京ダック

カメラを持って行かなかったので、山下リサさん渾身のショットをお借りした。

2010年4月21日

『辺境遊記』オフィシャルサイト、オープンしました!!
http://www.eijipress.co.jp/henkyo/

【お知らせ】
4月26日発売の『PREDIDENT』(プレジデント社)に、『W杯に群がる男たち』書評が掲載されています。写真つきです

2010年4月20日

以下は今日、知り合いに送ったメールだ。
『辺境遊記』がいよいよ書店に並んでいる。

☆    ☆    ☆

前略

【名刺を交換させて頂いた方にBCCでお送りしています】

今日あたりから、本屋にぼくの新刊本『辺境遊記』(英治出版 2100円)が並んでいます。
この本は、絵描きの下田昌克(『ニュース23クロス』TBS系のオープニングに絵が使用されています) と世界の辺鄙なところを旅した連載をまとめたものです。
キューバ、ツバル、サハリン、小笠原、ダラムサラなど、基本的には東京から辿り着くまでに24時間以上掛かる場所を選んでいます。 旅先で、下田が気に入った人の顔を描き、ぼくがその間に話を聞きました。辺境には、それぞれ物語があり、そこに根を張る人の強さがありました。
出版不況の中、絵と写真と文章を組み合わせた豪華な作りになっています。デザインの山下リサさん は、アラーキーやうめめ≠フ写真集も担当している実力ある人です。本の中には、ぼくの写真もか なり使われています。こんな風に写真を使うんだ、と撮ったぼくが嬉しくなってしまいました。
購入、宜しくお願いします。

ネパール

本の中でも使った、ネパールでの写真。気に入っている写真だった。
タイトルをつけるならば「おい、撮るな!」という感じかな。男の子の表情が最高だ。

2010年4月10日

今から15年以上前のことだ。ぼくの働いていた『週刊ポスト』の編集部に二人の新入社員が仮配属 となり、一人がぼくと同じ班になった。
ぼくにとって初めての後輩だった。
ところが、この後輩とはどうにも合いそうになかった。大学時代からラジオ局でアルバイトをしており、業界に知り合いが多いと自慢する、軽薄な男だった。関西で言うところのいちびり≠ナある 。
「田崎さん、ロック好きなんですよね」
「まあね」
「ぼくもロックやってたんですよ」
「そうなんだ…。どんな音楽が好きなの」
「アルフィーっす」
その日からぼくは彼に辛く当たることに決めた。
その後、ぼくはすぐに別の班に移ったが、この後輩とは縁があったのか、何度も同じ班になった。
彼は大相撲の八百長などを担当しており、入稿量は多かった。一方、ぼくは遊軍のようなもので、 仕事がない週も多い。入稿がない時に限って、声を掛けてくるのだ。
「田崎さん、また暇ですか?」
本当に頭の来る奴だと思いながら、
「相撲と野球なんか、前任者からの引き継ぎだろ? お前の見つけてきたネタじゃない。それ以外の記事を入れてみろよ」
と言い返す。
こんな風に良く口論していた。
それでもたまに飲みに行き、色々な話をした。軽く見えるが、週刊ポストのことが大好きで、真剣に考えていることが分かり、少しずつ親しくなった。
1999年末、ぼくは出版社を辞めた。
人によっては、退社も仕事を頼まれることがあるが、ぼくの場合は違った。
自信過剰でくそ≠ェつく生意気であったこともあるだろう。古巣から仕事を依頼されることはな かった。ぼくの方も頭を下げてまで仕事をもらう気はさらさらなかった。色々な雑誌で仕事をしたが 、週刊ポストとはずっと距離があった。
2006年のW杯の前、その後輩から電話があった。
当時、彼は『週刊ポスト』のグラビアを担当していた。W杯の記事を書いてくれないかというのだ。
それから再び、彼と会うようになった。
出版不況もあり、週刊誌はかつての勢いを失っていた。それでも、昔のように面白い企画をやりたいという彼の意気込みを感じた。
そこで、絵描きの下田昌克との不定期連載を始めることになった。キューバ、リオ、ツバル、サハリン さまざまなところに出かけた。
旅から帰ってくると、この後輩を交えて飲んだ。奴はいつもひどく酔っぱらい、ぼくに絡んだ。
「売れない本ばっかり、作って。たまには売れる本作ってくださいよ」
そんな風にいつも喧嘩が始まった。
何度か続くうちに、愚痴を言って本音で話ができる相手がほとんどいないのだと思うようになった。
最初、下田もこの後輩に戸惑っていた。口は悪いが、経費が厳しい中、なんとか企画を通そうとしてくれていることを理解し、年賀状の干支を毎年書かされる仲になった。

 

先月14日のことだ。
ブラジルのリオに着いて、パソコンを開くとこの後輩がくも膜下出血で倒れたというメールが届いていた。かなり危ない状態だという。
ぼくは頭がぐらぐらした。
下田との連載は、彼がグラビア班から異動したことで修了していた。単行本にする過程で、彼と電話で口論になり、いつものように仲直りした。帰国したら一緒に酒を飲みに行こうと思っていたのだ。
病院に駆けつけたい気持ちだったが、行ってもどうにもならないというので、そのまま仕事を続けることにした。
4月1日にぼくは帰国。仕事が一段落するであろう、8日ごろ見舞いに行くつもりだった。
ところが 4月6日。彼が亡くなったというメールが来た。
昨日、9日は通夜だった。下田は『辺境遊記』のできあがったばかりの見本を懐に入れていた。
本を見れば、「また売れなさそうな本作りましたね」とか憎まれ口を叩くだろう。
でも、もう喧嘩はできやしない。あんまりだぜ、中島。 

2010年4月8日

先週4月1日、パリを経由して無事に帰国している。戻ってからずっと諸々追われており、未だに落ち着かず、時差ぼけもとれない。
昨日、英治出版の担当O嬢が、『辺境遊記』の見本を届けてくれた。いい感じだ。写真と絵と文章が上手く組み合わさっている。下田が最後に絵につけた言葉も面白い。4月19、20日ごろには書店に並ぶはずなので、是非買って欲しい。

辺境遊記