週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。

INDEX  2009 « 2008 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 » 2007

200804

2008年4月25日

帰国してずっとばたばたしていたが、ようやく少し落ち着いた。来週月曜日、28日発売号に今回の北京取材が「週刊ポスト」に掲載される。
タイトルは、「聖火を待つ北京」。巻頭8ページである。

さて。
先日、22日にナショナルトレーニングセンター(NTC)でハンドボール男子代表の練習が報道陣に公開された。
今回の合宿でもっとも気になっていたのは、やはり田場裕也のことだ。
1年以上、国内トップの舞台でさえも遠ざかっている。技術や一瞬の判断がさび付いていないか、体力は戻っているのか、そしてもう一つはチームに溶け込んでいるか。
彼の強烈な闘争心は、和を重んじる日本では、理解されないこともある。私生活を含めて、いい意味でも悪い意味でも日本の規格外であった田場を理解し見守ってきた、山口修や東俊介、あるいは杉山裕一、岩本真典などはもう代表にいない。田場よりも年下の選手たちが、彼の言動をどのように受け止めているのか、気になっていた。

公開練習の前日、田場から電話をもらった。彼は、利き腕である右手の指を怪我をしていた。シュートを打つのは難しいが、それ以外は問題ない。治療があるので、練習は途中から参加することになる
ということだった。

田場が真新しいNTCのハンドボール専用コートに現れたのは、紅白戦の途中だった。
二つのコートで四つのチームに分かれ試合を行っていた。田場は、宮崎大輔、猪妻正活、富田恭介たちと同じチームに入った。
田場はコートに入ると、周囲の選手たちに大きな声を出した。それまで静かにプレーしていた選手の中で、味方の選手を叱咤する田場は浮いていた。選手たちの表情を見ている限り、田場の言葉が伝わっているかどうかは分からなかった。
相手チームにスピードのある中畠嘉之がいた。田場は、中畠の身体を両手でつかむと持ち上げた。
「おい、おい」
中畠と同じチームの下川真良が怒りの声を上げた。下川は湧永で田場と同僚だったことがある。田場のやり方を熟知している。
ファール気味ではあったが、僕が知る限り、田場のプレーしていたフランスリーグでは、この程度ディフェンスは良く見かけた。練習の疲れも蓄積していたこともあったが、この日の練習でそこまで身体をぶつける選手はいなかった。静かな雰囲気に田場は少し苛立っているようにも見えた。
そんな田場を見ながら、宮崎は少し笑ったように見えた。日本代表にはいない、田場らしいプレーだと思っていたのかもしれない。
「もっと集中しろよ」
退場から田場は戻ると、再び猪妻たちを怒鳴り続けた。
猪妻が所属する大崎電気でプレーする時は、どこか醒めているように見える。熱くなることは格好悪い。そう考えているのではないかと、残念に思うこともあった。その猪妻が田場に何事か言い返した。彼もまた熱くなっているようだった。
田場のチームは次第に相手チームを圧倒した。富田は、田場からのパスを受け、得点を取り続けた。
宮崎は調子がいいようで、他とは格の違うスピードを見せた。
田場のプレーは、フランスリーグでプレーしていた時代と同等かどうかははっきりしなかった。ただ、目立っていたことは間違いない。怪我で強いシュートを打てない田場に相手のディフェンスがつられていた。調子に乗った田場は、七メートルスローまで打ったが外し、苦笑いした。

練習終了後、富田に声を掛けると、彼は田場とプレーできることが嬉しくて仕方がないようだった。
「他の日本の選手から言われることと違うんですよ。やっていてすごく楽しいです」
田場の熱を、理解している選手がいたことに僕は安堵した。

しかし−−。
公開練習の翌日に韓国で行われる試合、そして今日、豊田で行われる試合のメンバーが正式に発表された。
このどちらにも、田場は入っていなかった。これまで日本代表を支え続けてきたキャプテンの中川善雄も外れた。
田場たちが落ちたことに、自分の分身を失ったような悲しみを感じている。
今回の、世界最終予選は、単なる予選ではない。今回はテレビ中継があり、無様な戦いをすれば、盛り上がりかけた今のハンドボール熱に水を差すことになる。今後10年以上のハンドボール界の動きに影響を与えることになる。中川たちがこれまで地道に努力してきたことを無駄にしてはならない。選んだ監督、選ばれた選手はその責任を背負っている。

田場は合宿が終わった後、こう言った。
「伝えなければならないことは、ある程度伝えたという手応えはあるんですよ」
今は、日本代表の戦いぶりをじっくりと見るだけである。

田場裕也

田場がいると、宮崎に集中する報道陣も分散する。
宮崎も、いつも自分だけが注目されて悪いという思いが、少しは楽になったろう。
一番の鍵は、宮崎をいかに楽にプレーさせ、彼の才能を最大限に引き出すかだと思っている。

2008年4月22日

今週4月25日発売の「SPORTIVA」(スポルティーバ 集英社)で、田場裕也の復帰までの話、そして韓国代表のペクのインタビューと、ハンドボールに関する記事を二本書いている。
初めて田場のことを書いたのは、04年秋発売の「VS.」だった。この記事がきっかけで彼は「情熱大陸」に出演することになった。僕は続けて、田場、宮崎大輔、中川善雄に取材して、「AERA」にも原稿を書いた。
それまでハンドボールを一般誌に取り上げる書き手はいなかった。“中東の笛”で不正な試合に泣かされており、それを誰も報じることはなかった。そうした状況に憤る僕は、彼らの目に援軍として映っているのが分かった。
ある時、僕は彼らに釘を刺した。
僕はあくまでも書き手である。結果を残さない場合、あるいは納得できない場合は、叩くことになる。それが正当な書き手である、と。
あの当時、選手たちは、ハンドボールを取り上げてもらえるだけで喜びを感じ、僕の言葉をきちんと理解していなかったと思う。

今回の「スポルティーバ」の記事を読んで、気分を悪くする選手や関係者がいるかもしれない。
基本的に、僕は自分が正しいと思ったことを伝えるだけである。時にそれは批判的になる。ブラジルのサッカー選手たちが逞しく、強いのは、メディアのプレッシャーが半端ではないから、という面がある。
90年のW杯で無様な敗北を喫した後、ドゥンガはブラジル国内のメディアの総攻撃を受けた。彼は当時のことを笑いながら、僕に話してくれたことがある。
「サッカーと関係なくても、何か悪いことが起こると、全て僕の名前と結びつけて報じられたこともあった。あの時は本当に精神的にはきつかった。次の大会でこの汚名をそそいでやる。そう、強く思っていたよ」
彼は94年のW杯で優勝した。
以前、サンパウロで彼と一緒にタクシーに乗った時、運転手が驚いた顔をした。
「俺たちのキャプテンがお前の隣にいるぜ」
そんな風に認められているのは結果を残したからだ。敗北のままならば−−別の評価を下されているだろう。そのことを分かっているから選手も発奮するのだ。

ハンドボールに限らず、複数の選手が激しく動く種類の競技は、見る人間によって、とらえ方が違う。僕の見方が全て正解というわけでもない。別の見方をする人間もいるだろう。本来は、サッカーや野球のように複数の書き手が、様々な見方で原稿を書けばいいと思っている。
ただ、ハンドボールでは、試合や選手をきちんと追いかけて、商売として成り立たせることが難しい。その意味で自分の責任が重いことを理解し、努力してきたつもりだ。

僕はフリーランスで動いており、何らかの組織のバックアップはない。批判を受ける選手たちと同様に、僕もまたきちんと名前を晒している。僕の原稿が、大多数の読者(あるいは編集者)から見て、不当であるとすれば、結果的に仕事を失うことになるだろう。当たり前のことだが、原稿の裏側には、覚悟がある。それがプロの書き手の文章である。その上で、是非、今回の記事を読んで欲しい。

田場裕也

2008年4月19日

昨日、無事に北京から帰国しました。
今回の中国出張で分かったこと−−。

1.中華料理の辛さをなめてはならない。
十年来の付き合いである音楽家、元爆風スランプのファンキー末吉さん(北京在住)と久しぶりに食事をした時のこと。食事が終わりにさしかかり、ファンキーさんは、店員を呼びました。
「おーい、もうちょっと辛いものを食べたい。できるだけ辛いものを持ってきてくれ」
僕たちの目の前に現れたのは、鶏肉の炒め物。確かに赤と青の唐辛子が入っていましたが、地味な色合いの料理でした。
僕たちは少々、落胆しながら、鶏肉に箸を伸ばしました。
「あまり、辛くないなぁ」
しばらくすると−−。身体中から汗が噴き出しました。旨くて辛い。汗を流しながら食事をすることになりました。

2.パンダは目を開けると人相(動物相?)が悪い。
パンダは怠け者で、ちっとも動きません。また、フンをした後に、その横で平気で寝ていました。かなり怠惰な動物でした。そして目をつぶっていれば可愛いが、開けると人相が悪い。
−−というのはもちろん余談です。

今回の北京取材は、五輪を中心に今の中国を切りとるという企画で、「週刊ポスト」(小学館)の再来週月曜日4月28日、連休前の合併号の中のグラビアに掲載されます。
8ページの記事で、同行した太田真三カメラマンの執念もあり、面白い記事になっています。是非、連休旅行のお伴に購入お願いします。
また、週明けの来週月曜日の「週刊ポスト」のグラビアには、先日のネパール取材が掲載されています。絵描きの下田昌克と行く不定期連載ですが、いつもよりも攻撃的な文章を書いています。こちらも是非。
来週25日発売の「SPORTIVA」(スポルティーバ 集英社)で、ハンドボールについて書いています。
こちらも非常に面白い記事になっていると思います。
取り急ぎ、連絡まで。

パンダ

2008年4月16日

今日は北京郊外の万里の長城まで足を伸ばした。
僕が小学生か中学生の時、祖父が中国に旅行し、万里の長城やパンダのバッヂを大量に買ってきてくれたことがあった。その時、いつか万里の長城に行ってみたいと思った。
毛沢東曰く「不到長城好漢(長城に行かぬは男にあらず)」
これまで登る機会がなかったのだが、四十才にして、遂に“好漢”となった!
三月末から移動続きで、今年も結局一度も花見に行くことができなかった。万里の長城では桜が咲いていた。季節外れの花見を楽しむことができた。

万里の長城

万里の長城

2008年4月12日

昨日は、早稲田大学の「スポーツジャーナリズム」講座で講義。昨日は今季最初の授業だった。毎月一回のペースで教壇に立つことになる。
いつも書いていることだが、上の目線から教えることは僕にできない。自分はそんな大層な人間ではない。自分の経験を伝えて、僕も学んでいきたいと思っている。
学生の聡明な目は、僕の身を引き締める。
そして、今日−−。
中国の北京へ到着。北京に来るのは昨年の七月以来である。北京五輪を直前に控えたこの街の様子をリポートするつもりだ。

北京「鳥の巣」

北京五輪のメイン会場「鳥の巣」にて。

天安門広場

北京の中心部、天安門広場にて。

2008年4月9日

前略
本日、ネパールの首都カトマンズより無事に帰国しました。『週刊ポスト』(小学館)で絵描きの下田昌克とやっている、不定期連載の取材でしたが、今回はこれまでのシリーズと違う点がありました。
一つは、小学館写真室の太田真三さんが、スケジュールの都合で同行できず、僕が写真を撮ることになったこと。
いつも僕は太田さんの横で写真を撮ってウェッブ等に使っていましたが、責任を持って撮るのは全く違いました。
二つめは、まさに今起こっていることに反応したということ。
今回の取材は下田からの申し出がきっかけでした。「情熱大陸」でも取り上げられた、彼の著書『プライベートワールド』の核となっていたのは、カトマンズでの人との出会いでした。彼はカトマンズに住んでいるチベット人と出会い、絵を本格的に描き始めました。ご存じのように、カトマンズではチベット人がデモを行い、千人が逮捕されたという報道がありました。
ネパールに住んでいるチベット人は二万人と発表されていることを考えれば、相当の数です。約3年間、下田はネパールから遠ざかっていました。友人たちの安否を心配した下田が、ネパールに一緒に行ってみないかと言い出したのです。僕たちはたまたま4月の頭のスケジュールが空いていました。
僕は今の北京五輪を巡る騒動について、ネパールに住むチベット人に話を聞くということで企画にしました。
河口慧海の著作などは読んでいましたが、僕にとってはチベットは縁の遠い世界でした。出発前に慌てて、数冊の本を急いで買い求め読みました。
実際に着いてみると−−。
下田の友人ということで、僕はチベット人に親切に受け入れてもらい、かなり立ち入った話まで聞かせてもらいました。お前は大切な親友の友人だから話してもいい。そんな暖かい雰囲気を常に感じました。
そして、僕は彼らが見送ってくれる姿を見て、一週間ほどの滞在にもかかわらず、胸が締め付けられる思いでした。
とりあえずは、再来週4月21日発売の『週刊ポスト』のグラビアを見て欲しいと思います。
恐らく、遠くない将来、再びネパールに行くことになるでしょう。今後に繋がる、新しい出会いがあったような気がしています。

080409

2008年4月7日

今日は飛行機に乗り、ヒマラヤ山脈を見に行く。 二月は世界で最も標高の低い島ツバルに行き、今、世界で最も高いエベレストのそばにいると考えると不思議な気持ちになった。
エベレストツアーの飛行機の後ろ半分は、中国人の観光客の団体が乗っていた。彼らは出発前から、皆を待たせて乗り口で記念撮影、狭い通路で乗務員の肩を抱いてまた撮影。大阪のおかんよりも喧しく、厚かましい…。明日午後の飛行機でバンコクを経由して日本に戻る。初めて来た国なのに、離れがたい。なぜだろう…。

080407

2008年4月5日

僕は、仏教系の高校に通っていたが、宗教の授業の時間は体育の後だったので、ほとんど机の上で寝ていた。
一年生は、釈尊の一生、二年生の時は法然上人の一生を勉強したと記憶している。学期の最初に教科書をざっと読んで、あとは夢見心地で授業を聞いていた。
成績はレポートで決められ、僕は友達のレポートを代筆してお金を稼いだこともあった。
初めてインドに行った時、ブッダガヤの隣にスジャータ村を見つけた。釈尊が悟りを開いた時に、村娘スジャータが捧げるミルクを飲んだと教科書に書いてあったことを思い出した。
そんな風に、仏教の知識は最低限しかない。
ただ、聖なる場所というのは、何かしら感じるものがある。今日は、スワヤンブナートに出かけた。

080405

すやすやと眠る二匹の犬、そして猿。

080405

何か映画の撮影をしていた。かなり間抜けな映画のようだが……。

2008年4月4日

カトマンズのチベット人村を歩いていた時、突然下田が空を指さした。
指の先を見てみると、チベット国旗の向こうに虹が出ていた。太陽を取り囲むように丸い形をしていた。
一緒にいた下田はもちろん、この街に住むケドゥプさんも、こんな虹は見たことがないと顔を見合わせた。空は青く、雨は一滴も降っていないのだ。
虹はあっと言う間に青空に吸い込まれて消えていった。あの虹はなんだったのだろう−−。

080404

チベット人地区には、タルチョと呼ばれる五色の旗がなびいている。
青は空、白は風、赤は火、緑は水、黄は地をそれぞれ意味している。

2008年4月2日

一昨日沖縄から戻り、昨日、肌寒い東京を出てバンコクへ。バンコクの気温は三十度を超えていた。
バンコクで一泊して、今日はネパールの首都カトマンズへ。
今回も絵描きの下田昌克と一緒である。太田さんが多忙のため、同行できなかったので、写真も撮らなければならない…。

下田曰く「この街に来ていなかったら絵描きにならなかった」。会社を辞めて、北京ダックを食べに香港に行き、そのまま勢いで、ネパールまでたどり着いた。たまたま書いた絵をこの街の人が褒めてくれた。そして、今まで描き続けている。下田にとって大切な街なのだ。
僕にとっては初めての国。これから一週間、五感を研ぎ澄ませて、いつものように人々の話に耳を傾け、動き回るつもりである。この国をどう切り取るかについては『週刊ポスト』のグラビアをお楽しみに。

080402