1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。 |
|
2008年10月31日
前略
一昨日、那覇を経由して南大東島出張から戻ってきました。南大東島では、インターネットがきちんと繋がらず、メール受信はできるものの、送信ができませんでした。また、携帯電話は繋がりましたが、かなり雑音が混じっている状態でした。離島のIT環境はまだ問題があるようです。その間、連絡がとれなかった方は申し訳ありません。
初めての場所に行く時には、足で歩いてその土地の感覚をつかむようにしています。南大東島は連日気温30度を超える天気のため、必然的に夜明けと共に起きて、島を歩き回ることになりました。そのため、東京に戻って時差ぼけ気味です。
沖縄本島には、観光産業やらで、本土からの欲の突っ張った人間が闊歩してうんざりすることがありますが、南大東島は岩場に囲まれビーチがないこともあるのでしょう、のんびりとした雰囲気が流れていました。
以前、行った小笠原諸島の人たちは、都市出身の方が多く、洗練された雰囲気がありました。それと比べると南大東島は荒っぽい感じですが、また違った優しさがあったような気がします。
海釣りに連れて行って貰い、食事や酒をご馳走になり−−那覇へ戻る、小さなプロペラ機に乗った時は、島から離れたくない気持ちになりました。
この南大東出張は、まだ未定ですが、来月発売の「週刊ポスト」のグラビアに掲載されることになると思います。また、今週末発売の週刊ポストには、京都出張の記事が掲載されています。
そして今日から再びロサンゼルス出張にでかけます。戻りは11月6日の予定です。
ロスではインターネット接続には困らないはずなので、連絡がとぎれることはないと思います。
取り急ぎ報告まで。
2008年10月27日
残念ながら、南大東島の滞在も今日が最後である。島の人たちには、釣りに連れて行って貰ったり、酒を奢って貰ったりとすっかりお世話になった。
この島は必要最小限の物しかないが、人々は幸せそうだ(もちろん島ならではの問題はあるだろうが)。十分な給料を毎月貰いながら、がんじがらめで苦しそうな顔をしている東京の人間の顔が頭をよぎった。
金も物もなくても−−名誉や見栄などに縛られる気持ちがなければ、ずっと楽に生きることができるだろう。都会を捨てて、この島に移り住む人間の気持ちもわからなくはない。
那覇で二泊してから、東京に戻ることになる。
南大東島には不思議なものがある。
これはサトウキビ畑の地下にある、地底湖。
鍾乳洞を潜っていくと、見たことのない透き通った青い水が溜まっていた。洞窟は深い闇に包まれていた。灯りを切ると、目を開けても閉じても同じ黒色が広がっているのは、新鮮な感覚だった。
ホテルなどを作って観光産業の人間が入ってくれば、素朴な空気はなくなってしまう。今の世の中では、不便こそ、最大の贅沢なのかもしれない。
前日、釣りに連れて行ってもらったが、下田画伯が小さな魚を二匹釣り上げただけだった(一匹は大物釣りのための餌に。もう一匹は塩煮にしてもらった。塩と水だけで十分美味しくなるのだ)。
島を出る朝、居酒屋の大将がリベンジのために、釣りに連れて行ってくれた。青い透き通った海では魚が集まっているのがはっきり見える。しかし、なかなか魚が掛からない。
大将の釣り糸に反応があった時、すでに竿が折れていた。仕方がなく、ゆっくりと魚を岩場に追い込んだ。最後は糸まで切れたが、手づかみで捕まえた。僕たちの島で最後の食事は、この魚の刺身だった。
2008年10月23日
南大東島は今日も快晴。
今朝、僕の使っているvaioでグレー公衆電話を使って、インターネットに接続しようとした。ただ、島の電話回線の状況は悪いようで、接続音は出るのだが繋がらない。10年ほど前、ブラジルのアマゾンでインターネット接続を試みた時のことを思い出した。
今や世界はインターネットで情報が行き渡るようになっている。今年行った、ネパールのカトマンズでさえ、レストランの無線LANで楽々メールの送受信や写真のアップロードができた。
ところが……。
南大東島は情報インフラが貧弱である。ホテルにはインターネットの回線は来ているが、客室では使うことができない。インターネットカフェはない。
今日、ホテルに無線LANのルーターが届いているというので、僕がセッティングすることにした。
少々とまどったが、接続完了。
「ホテルよしざと」のIT革命や〜−−−と浮かれたのも数分。
無線LANで繋いでいた、カメラマンの太田氏が、メールの受信はできるが送信はできないと言い出した。僕も下田も自分のパソコンで試してみたが駄目。通信速度が遅いせいか、閲覧ソフトが開かないので、そちらを使った送信もできない。
南大東島は、村役場の回線をみなで使っているのだが、ホスト側で、厳格なセキュリティをしているようなのだ。この島のITの夜明けは遠い。
南大東島は、空も海も青い。
下田画伯、快調に仕事中。
2008年10月22日
今月20日発売の『月刊ハンドボール』(スポーツイベント)で「魂のハンドボール」という連載を始めている。田場裕也が始めた琉球コラソンのことを追ったノンフィクションである。
アシスタントの元重の力も借りて、いい取材ができたと思う。これから、ハンドボール界、マイナースポーツ界の抱える問題を描いていくつもりだ。一回目は四ページと読み応えがあるので、あまり書店では売っていない雑誌ではあるが是非読んで欲しい。
また、先週の週刊ポストの京都取材は、11月3日発売号に掲載予定である。
さて。
今日から沖縄本島から約四百キロ東にある南大東島に来ている。飛行機で羽田から那覇、那覇で飛行機を乗り継いで南大東島にたどり着いた。
この南の島は気温約30度、まだまだ夏である。先週に引き続き、絵描きの下田昌克とこの島を走り回ってくる。
星野洞という鍾乳洞。離島ということもあるが、過度に手が入っておらず、素朴な感動がある。
2008年10月18日
昨日、昼過ぎに京都出張から戻った。午後は、早稲田大学の大隈小講堂でフォーラムの司会をした。
大隈小講堂は、シャンソン研究会時代に一度ライブをしたことがある。その時と内部の様子はずいぶん変わり、新しくなっていた。
急に開催することになったので、告知が行き届いていないのではないかと心配していたが、百人近い人に集まってもらった。顔見知りの学生も多く、観客の質は高かったように思える。内容のある話を率直にしてくれた長南に感謝したい。
さて−−。話は全く変わる。
高校生の時、夢見ていたことの一つが、自宅に音楽スタジオを作ることだった。
当時は月に数度、スタジオに集まってバンドの練習をしていた。高校生なので、金銭的な面から借りる時間にも限界があった。いつでも思い切り音を出すことができたらどんなにいいだろうと夢想していたのだ。
あれから二十数年−−。
スタジオ付きの自宅を建設することはできていないが、近い形で夢が実現した。
8月に、僕たち「荒木町ハッピークラブ」を中心として、近辺を拠点とする複数のバンドで、スナックを借りることにしたのだ。
僕はそこを「荒木町ハッピースタヂオ」と名付けた。
考えてみれば、自宅にスタジオを作って一人で色んな楽器を弾いても、それほど楽しくない。一人でレコーディングをするのが好きな人もいるだろうが、僕にとって、音楽とは「バンド」である。
バンドというのは、様々な人間が集まって、問題もありながら、まとまっていくのが楽しい。複数のバンドでスタジオを運営するのは、自宅にスタジオを作るよりもずっと楽しいことだろう。
長年使われていなかったスナックは、壁はカビだらけ、エアコンのダクトは分厚い埃にまみれていた
。暑い夏の日、みなが集まって、汗だくになりながら掃除し、なんとか使えるようにした。
ところが−−不可解な理由ですぐに追い出されてしまった。
幸い、代わりの場所はすぐに見つかった。多少狭くなったが、“初代”のように、複数の除湿器を全開にしてもとれない強烈な湿度、いるだけで体調が悪くなりそうな程の、鼻をつく強烈なカビの匂い
がなく、ずっと快適である。
今年のライブのポスターはその二代目「荒木町ハッピースタヂオ」で撮影した。
ライブまであとわずか。追い込みに入っている。
写真とデザインは昨年に引き続き、写真家の二石友希氏。
ポスター右上のAHC(荒木町ハッピークラブ)の新キャラクターは、髑髏をかぶった狼。
これは下田昌克画伯の手によるものである。
2008年10月15日
先週の大分出張に引き続いて、今週は昨日から京都に来ている。
京都は僕の産まれた場所であり、高校時代を過ごした街でもある。四条烏丸に泊まり、時間があった
ので近くを歩いてみた。
こんな風に京都の街をのんびりと歩くのは久しぶりのことだ。
京都の街は、高校生の時と比べると全く変わってしまった。
昔の京都はもっと閉鎖的だった気がする。
とくに東京への対抗心は並々ならぬものがあった。東京の大学に進学するのを「都落ち」と称するの
は京都だけだったろう。
かつて社会党(そして共産党を母体とした)の蜷川虎三を首長に担いだのも、東京を中心とした他の地
域への過剰な意識であった(子供のころ、周りの大人が「共産党は大嫌いやけど、蜷川さんは好きや
」と言っていたのを覚えている。まるでフィデル・カストロのように、党ではなく、人間を支持して
いた)。
ところが、今では、表通りを歩いていると、東京にかなり近づいている印象を受ける。恐らく東京へ
の対抗心も薄れているだろう。
もっとも、裏道に入ると、いい意味で「京都」の印象をうまく使った小粋な店が多い。地元の人間が
経営しているのではないかもしれないが、街の活力を保っているのは、出身者として嬉しい。
今回は、サハリン以来の週刊ポスト・グラビア連載の取材である。絵描きの下田昌克と一緒に、京の
華、“舞妓はん”たちを描いてくる。
祇園の料亭の横で、巨大なカラスミが干してあった。烏が持っていかないように見張りがいた。
祇園にて。
2008年10月6日
急な話になるが、僕が関わっていた早稲田大学「スポーツジャーナリズム講座」の一環として、来週の金曜日午後にフォーラムの司会をすることになった。
ゲストは、僕の友人でもあるテレビディレクターの長南武。長南には昨年、彼が演出する「情熱大陸」の映像を使いながら、中村裕さんと一緒に授業をしてもらったことがあった。
八月末にon airされた「情熱大陸」で北京五輪金メダルの吉田沙保里選手のことを撮っていた。近年、大きな大会は
制限が増えて、取材がしにくくなっている。
フリーランスの立場で、良質の番組を作り続けている長南から、色々と聞きたい話はある。ジャーナリズムを志す、学生にとって刺激的な話を引き出せればと思っている。入場無料なので、時間のある方は是非見に来てほしい。
<大久保建男記念スポーツジャーナリズム基金 公開フォーラム>
テレビはいかに五輪を伝えたか
〜北京の現場から〜
2008年10月17日(金) 16:30〜18:00
早稲田キャンパス 大隈小講堂(大隈講堂地階)
事前申し込み不要、入場無料