1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。 |
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2008年8月25日
北京五輪が終了。
元々は八月後半はブラジル出張の予定だった。ところが、アポイントメントが上手く入らず延期になった。
時間が多少できたので、以前から付き合いのあるドゥンガが率いるブラジル五輪代表が決勝に進んだ場合、北京まで見に行こうという話になっていた。
ところが、結果はご存じの通り、アルゼンチンに準決勝で敗れてしまった。
7月、8月は、通常の仕事の他に、新たな競技団体の立ち上げ、事務所の移転、折角作った地下スタジオが立ち退きの憂き目に−−。北京に行っていればさらにスケジュールが厳しくなったろう。前向きに考えることにしよう。
今から四年前、2004年8月にドゥンガが支援する施設があるポルトアレグレの貧民街の写真。
日が暮れてからは歩けない、相当危険な地区である。
ドゥンガ自らが案内してくれたこともあり、みなが親切に迎えてくれた。
2008年8月11日
先週月曜日に那覇から東京に戻って、うんざりとした。気温はもちろん湿度もあって、東京の方がずっと暑いのだ。 そんな暑さの中、原稿を書き、打合せをこなしている。仕事はもちろんだが、新たに組織を興したこ ともあり、多忙を極めている。この組織については、来月あたり詳しく報告したいと思っている。
今月の 「国境なきフットボール」 では、イタリアでロベルト・バッジオに“取材”した時のことを書いている。
この当時は、コンタックスのG1を使っていた。小学館写真室に転がっていたモノクロフィルムを使い、暗室で現像してもらった。今から考えれば、いい経験をさせてもらった。
ユベントスとの試合の後、バッジオに至近距離まで近づき、シャッターを押した。
2008年8月1日
正直なところ、思っていた以上の出来だった。
ハンドボールという競技は、サッカーと比べて、ボディコンタクトの機会が多く、身体の大きな選手が圧倒的に有利である。日本代表クラスで、僕(178センチ)よりも小さいのは、宮崎大輔ぐらいである。彼ほどの飛び抜けた才能がなければ、やっていけない。
「琉球コラソン」の選手たちは、僕よりも小さな選手が多い。他のチームと比べると、一回り、いや二回り小さい。
ハンドボールの世界では身体の大きさも才能の一つである。コラソンの選手は、日本リーグのクラブから声が掛からなかった選手ばかりだ。
昨日の試合では、そんな雑草集団であるコラソンが、昨年のチャンピオンチームの湧永製薬をぎりぎりまで追い詰めた。古家や東長濱秀作、ヒガシは、前から執拗に追い回され、いつものプレーができなかった。
最終的には地力に勝る湧永が力でねじ伏せたが、拮抗したゲームだった。
コラソンの東長濱秀吉監督は、秀作の父でもある。身体が小さくてもどのように戦うのか、弱者の戦い方をチームに叩き込んでいた。身体の大きな相手と互角に戦うには、筋肉をつけることだけではな
い−−彼のハンドボールに対する哲学は、世界的には小型の部類に入る「日本代表」にも参考になる
、はずである。
手応えがあったのだろう、湧永との試合後、インタビューを受ける田場の顔は晴れやかだった。