週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。

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200809

2008年9月13日

沖縄から月曜日に戻った。東京の方が沖縄よりもずっと暑い…。うんざりとする天気の中、仕事に追われていた。
今日は、和光市で琉球コラソンと大崎電気の試合。
試合開始から、コラソンは力の差を見せつけられた。
横にパスを回すだけで、全くシュートを打つことができない。プレッシャーがかけられると、パスミス。そのボールを簡単に繋がれて次々と失点。改めて、大崎の選手、特に前田や太田たちの身体的能力の高さを見せつけられた。
前半開始からしばらく、コラソンは一点も取ることができなかった。このまま零点のまま試合を終えるのではないかと心配になった程だった。
期待していた田場裕也も、かつての鋭い動きはなく、コラソンの中に埋もれた「並」、大崎の選手と比べると「並以下」のプレーだった。田場のフランスでのプレーを知っているだけに、彼の力はこんなものではなかったと観客に訴えたい思いだった。

試合は最終的に49対22−−。
30点差をつけなかったのは、武士の情けであったかもしれない。前半から、大崎の選手は何度もスカイプレーを見せて、試合よりも観客を沸かせることに気を遣っていた。
中心選手の宮崎大輔は、持っている力の30パーセントさえも出していなかった。このレベルの相手では、練習にもならない様子だった。
もはやこの差は、監督の力量でカバーできる範囲ではない。選手の入れ替えも含めて、田場裕也がGMとしてチームをどう立て直すのか。
弱いクラブが支持を集めるのは難しい。スポンサーを集めきらず、見切り発車でスタートしたクラブをどう運営していくのか。
コラソンは早くも大きな壁の前で立ちすくんでいる。

沖縄

沖縄の海が懐かしい−−。

2008年9月6日

全く、情けない試合だった。
前半を終えて、琉球コラソンが三点差でリード。コラソンは、完全に試合を支配していた。
体調不良の田場裕也を筆頭に、コラソンの選手はシュートミスを連発していた。もっと差がついてもおかしくない展開だった。
ところが、後半が始まると−−。
2分間退場、負傷退場が続き、先発メンバーが次第に入れ替わると、昨年僕が来た時にみた、「コラソン」に戻っていた。
そもそもコラソンは、日本リーグのクラブから声の掛からなかった選手の集まりである。技術がありながら、身体が小さい。あるいは戦術理解度が低い。特に初期のメンバーは、試合に勝つために必要なことを理解していない、何かが欠けた選手が多かった。
通用しないのに何度も縦に抜けようとして捕まる選手。横への動きで、相手のディフェンスをずらさなければならないのに、足が止まった選手−−。
練習の時から露呈していたのだが、少なくない選手が、自分のやってきた質の低いハンドボールに拘り、東長濱監督の「走る」「考える」ハンドボールを受け入れていなかった。それだけが理由ではないが、監督は怒り、先週は練習を数日中止した程だった。
練習でできないことが試合でできる訳がない。後半が進むにつれて、コラソンの選手は自滅し、逆転された。
試合終了、コラソンにとどめを刺したのは、トヨタ自動車20番の山口泰裕だった。
彼は最後まで足を止めなかった。その鋭い動きに、コラソンのディフェンスは翻弄された。山口もまた、174センチと小柄な選手である。コラソンがやるべきハンドボールを彼にやられていた。コラソンが負けるのは必然であった。
本来ならば、監督の指示に従わない選手は、クラブを去らせるべきである。しかし、財政的に限られ たコラソンでは不可能だ。もっとも、自分の能力を生かし切っていない選手もいる。彼らが、いかに素直になり、考え方を変えるか−−。
一年前、僕を失望させた岡田健は自分の良さを生かすプレーを覚えた。新加入の水野裕紀は、監督の沖縄独特のハンドボールを貪欲に吸収しようとしている。いずれ彼を獲得しなかったチームは後悔するだろう。
こうした選手が次々と出てこないと、田場裕也、そして東長濱監督の果敢な試みは、悲惨な結果で終わってしまう。

沖縄

2008年9月5日

今週、再び沖縄に来ている。
田場裕也が立ち上げた、琉球コラソンがいよいよ土曜日に日本リーグに参戦する。
僕がコラソンのことを書きたいと思ったのは、田場裕也に対する思い入れがきっかけだった。そして、取材をするうちに選手たちのことが好きになった。
琉球コラソンは、他の実業団チームと違って、一部上場企業に護られておらず、経済基盤は脆弱。選手に十分な給料を払える状態にない。
ガードマンなどのアルバイトで生計を立てている選手。大学を出て、きちんとした企業に入りながら、ハンドボールのために退社し、見ず知らずの土地にやってきた選手。
実業団リーグは日本全国で試合をすることになる。時間的な制約が出てくる。試合や練習に参加するために、敢えて正社員への誘いを断り、低い給料で我慢している選手――。
振り返ってみれば、先日の実業団選手権は、ぼろぼろの“海賊船”で、鉄板で武装した船を挑むようなものだった。
継ぎ接ぎの鎧を着た、非力で経験の浅い戦士たちが、強豪の湧永を追い詰めたのは、“海賊船”を指揮する東長濱秀吉監督の執念と勝負勘だった。
東長濱監督は自営業を営んでいる。リーグ参戦をしても、他の監督たちと違って「出張扱い」にならず、当然、収入は減少する。監督を終えた後に、戻るべき職場はない。選手たちのように、いずれ大きなお金を手にすることができるかもしれないという夢を持つ年齢ではない。選手へ満足に給料を払えないクラブが監督に払うお金があるはずもない。
もちろん、これは全て僕の推測であり、彼が金銭的なことで、不平をこぼしたのを聞いたことは一度もない。
スポーツ界とは、スポーツマンシップやフェアープレーと言う言葉が連想されるが、実際のところは自分の保身を最優先し、他人の悪口、口を開けば言い訳ばかりの小狡い人間が跋扈している。東長濱監督は、そうした世界と隔絶したところに立っている。
「監督」と「指導者」は別物であると僕は思っている。指導者は教育者でもあるが、監督は勝負師である。自分の力で立ち、生き残っている人間は、組織の人間と比較すれば当然「勝負師」に近く、 監督により相応しいというのが僕の考えである。その考えが正しいことを東長濱監督に証明して欲しい。
日本ハンドボールリーグは、実業団チームを念頭においたリーグであり、プロリーグではない。企業に勤める監督や選手に熱意がないなどと言うつもりはない。特に湧永や大同のように、他の社員と同じように仕事をしながらハンドボールを続けることは、大きな犠牲を強いられる。そんな中で結果を残している人たちは尊敬に値する。
ただ、僕もまた、企業の後ろ盾も、将来の保障もない人間である。
琉球コラソンというクラブに詰まった、監督、選手、それぞれの人生と思い――そこに僕は惹きつけられる。
浦添体育館での開幕戦はもうすぐだ。

沖縄

3日に行われたパーティで挨拶をする田場裕也GM兼選手。