週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。

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200805

2008年5月23日

今日は午前中に早稲田大学のスポーツジャーナリズム講座に顔を出し、午後から法学部の国際法&国際機構法の島田ゼミで話をした。島田ゼミに僕は三年間所属していた(通常は二年だが…)。
建て替えられた法学部の校舎に入ったのは初めてのこと。僕たちの時代とずいぶん雰囲気が違っていて驚いた。
ゼミでは、ツバルやネパール、ブラジルの移民の話をした。

さて。
ハンドボールの話。
いくつかの編集部と、クロアチアで行われるハンドボール男子五輪世界最終予選に行くことを前提に話をしていた。ただ、どうも僕自身の気持ちに踏ん切りが着かなかった。
これまでハンドボールの日本代表を追いかけて、チュニジアの世界選手権、バンコクでのアジア選手権、もちろん豊田市にも出かけた。どれも僕は日本が結果を出すと信じており、試合を楽しみにしていた。
しかし、今回はどう考えてもいい結果が出るように思えない。
僕はハンドボール専門のライターではない。そこに動く人物に興味があるから追ってきた。僕が書きたいと思うかどうかという気持ちが最優先する。考えた末、行かないという結論を出した。

前に日本代表の不甲斐ない戦いについて書いたが、成績について間違えていた。
韓国との再予選の後に、イランでアジア選手権があった。公式戦親善試合を合わせて、今年は対韓国戦4敗。全てを合わせて、2勝1分5敗。
アジアの国を相手にしてこの成績で、どうやって世界の強豪に立ち向かえると予想できるだろうか。
今回、世界最終予選の相手は、クロアチア、ロシア、そしてアルジェリアである。
チュニジアの世界選手権で見たクロアチアとスペインの試合は、まるで別次元で違うスポーツのようだった。ホームで戦うクロアチアには勝ち目はないだろう。
ロシアとアルジェリアに勝ち、二位通過を狙っていると聞くが、現実には難しい。
ロシアは伝統的に大型のチームである。
日本の選手は韓国戦でも分かるようにボディコンタクトに弱い。日本リーグには大型の選手はほとんどおらず、プレッシャーは緩い。ロシアは最も苦手とするタイプである。
また、アフリカ大陸は今、最も成長している地域である。多くのアフリカ人選手が欧州のリーグでプレーしている。簡単な相手ではない。
先日、欧州に行った時、あるハンドボール関係者と話す機会があった。彼は日本代表のDVDを見た感想を、「あの中にはこちらのリーグの中位から上位のクラブでプレーできる選手はいないね。もちろん練習参加は歓迎するが」と語っていた。日本の評価はそんなものである。

日本のハンドボール界はマイナーであり、人材が乏しい。ただ、その乏しい人材をさらにくだらないプライドで、有効活用もしていないようにも見える。
準備不足で合宿の全てのメニューをこなすことができなかった田場裕也を絶対に入れるべきであったとは言い切れない。ただ、勝負所では経験のある選手の方が力になったろう。
他にも、植松伸之介がいる。
彼は、世界最高のリーグ、ドイツの二部でプレーしている。ドイツでは二部までがブンデスリーグと呼ばれている。少なくとも日本の実業団よりもレベルは高く、当たりも厳しい。
彼のように、日常的に真剣勝負で大型の選手と戦った経験は、今のスタッフも含めて誰もいない。植松は日本では注目を集める選手ではなかったかもしれない。ただ、彼の積み重ねた経験と知恵、精神力は有効であるはずだ。
また、韓国代表のペク。
彼は欧州チャンピオンズリーグなど高いレベルで、大型の選手たちとのプレー経験がある。アジア人はどのように戦えばいいのか、彼は肌で知っている。
彼ほどハンドボールという競技を知っている男は日本にはいない。韓国との再予選で敗れた段階で、ペクを臨時コーチに迎え入れるのも一つの手であった。日本で最も優秀な監督は、かつて大同にいた韓国人のカンだった。カンもまた欧州でプレー経験がある。
留学で行くのと、プロとしてプレッシャーがかかった中でプレーするのとは、重みが全く違う。
本当に勝つ気ならば、ペクやカンに教えを乞うべきであった。彼らは日本の弱点を良く知っている。韓国には頼りたくない、というプライドを持つ余裕はなかった。考えつく全てのことをやるべきだった。

先週土曜日に、東京タワーでの代表メンバー発表と壮行会が行われた。ずいぶん前から代表メンバーは内定しており、関係者はみな誰が選ばれたか知っていた。空々しいお祭をやっている場合ではないだろうと、僕は欠席した。
そもそも日本のハンドボールが注目を集めたのは、代表が結果を出したからではなく、不正な笛があったからだ。追い風がありながら、何も結果を残せなければあまりに空虚だ。このままだと、宮崎大輔がヌード写真集を出したことしか記憶に残らない。
自分の国の代表が負けるのは当然見たくない。宮崎や富田たちが活躍して、僕の予想を吹き飛ばして欲しいという気持ちはある。
かつて、98年W杯の時、フランスのスポーツ新聞のレキップは、フランス代表監督のエメ・ジャケを叩き続けた。フランス代表が優勝した時、レキップは彼に謝罪した。
僕も大会が終わった後に、悪い予想を覆して欲しいとは思っている。
ただ…恐らく難しいだろう。

ツバル

ゼミでの話でも使用したツバルの写真。
ツバルを訪れたのは数ヶ月前のことなのだが、もうずいぶん前のような気がする。

2008年5月15日

前略
本日、スペインとフランスより無事に帰国しました。
異常気象の影響か、この時期に訪れた中では、初めてスペインで雨が降り、週末はかなり冷え込みました。南のモンペリエよりも帰国のため立ち寄ったパリの方が暑いという不思議な天気でした。
いくつかの打合せもこなしましたが、今回は基本的に休暇を過ごすことにしました。今年あたまから書き下ろしの新書などもあり、休みがない状態だったので、いい気分転換になりました。
フランス語の勉強も忙しさにかまけてさぼっていたのですが、以前よりは“まし” になったとフランス人の友人から褒められました。しばらくは東京で原稿書きに集中しようと思っています。
取り急ぎ

うし

Saint-Aunesの牛追い祭り

いぬ

パリに向かうTGVの中にて

2008年5月12日

前回のハンドボールの話の続き。
僕は誰か特定の選手が悪いと糾弾するつもりはない。ただ、「いいチーム」と「勝てるチーム」はしばしば別である。勝てるチームとは戦えるチームと言い換えてもいい。
今回の代表候補選手が若い選手ばかりであることに僕は目を疑った
ハンドボール界の今後十年を左右する大切な大会に、経験のない若手で臨むのか。
またまた、サッカーの話で申し訳ないが、サッカーのブラジル代表はW杯でしばしば若手選手を選ぶことがある。94年にはロナウド、2002年にはカカが入っていた。将来有望な若手にW杯の雰囲気を感じさせて次に繋げようという考えがある。
しかし…。
そうした若手の選考は強豪であるブラジルであるから許される。2006年のW杯で日本代表にはそうした選手は入れなかったのかとジーコに尋ねたことがある。
「そんな余裕はないよ。全員が戦える選手を選ばないと」
と当たり前だろうという顔をされた。

今のハンドの日本代表にもそんな余裕があるわけもない。
現在、日本リーグは、大同と湧永、大崎の三つのチームとそれ以外は相当の差がある。短期間で勝てるチームを作るのならば、チャンピオンチームの大同、あるいは湧永を中心にすべきであり、そこに足りない選手を上乗せするだけでいい。
僕は日本リーグで、下位チームが上位チームに必死で食らいつき、追い込んだ試合を見たことがない。ゲーム開始早々から大きく点差を離されて、そのまま終わっていく情けない試合ばかりだ。
“負け癖”のついた弱小チームの選手をわざわざ選ぶ必要があるのか?
各チームから均等に選手を選抜しなければならないというしばりがあるのか?
いくら気心が知れているとはいえ、全日本総合で大学生相手に負けるようなチームから若手選手を試すことは必要なのか?
疑問が幾つも湧いてくる。

代表に選ばれるためには、チームを強くしなければならない。弱小チームの選手はそう奮起すればいいだけだ。それは代表の重みを守ることにもなる。
実績ある選手を外した、あのような代表選考は賭けである。ただ、これまでの状況を打破するために、チームを大きく変えなければならなかったという判断も理解できる。宮崎大輔をほぼ一番年長にして、若手を起用する−−。
賭けには結果が必要だ。日韓戦では、若手に切り替えても十分に戦えるチームであることを示さなければならなかった。
これから最終予選に挑むチームと、すでに出場権を獲得したチームとのモチベーションの違いを考えれば、ホームの一勝はノルマで、アウェーでさえも引き分け以上を期待するのは当然だったろう。
それが2連敗。再予選を含めて3連敗。なかなか同じ相手に3連敗するのも難しい。
当然、あの曖昧な合宿の進め方、選手選考は疑問視されるべきだろう。
大切な大会を前に若手育成をしているのか。将来を見る前に、やらなければならないことはあるだろう、と。
専門誌を含めて、ハンドボール界は常時生ぬるい空気が流れている。ただ、いい部分はいい、悪い部分は悪いときちんと指摘すべきである。みんなは馬鹿ではない。今のハンドボール界に問題があることは分かっているのだ。
日本人は飽きやすい。せっかく盛り上がり掛けたハンドボール熱は、このままだとあっさり終息するだろう。繰り返し言うが、基本的には誰も弱いチーム、「負け犬」を応援したいとは思わないのだ。


さて、さて。話を僕の近況に戻す。
マニュエルの運転で、エバと共に、スペインから国境を越えてモンペリエに到着。
我らがモンペリエスポーツクラブは準決勝を勝ち抜き決勝に進んだが、決勝が大雨で中止。得失点差で優勝となった。

今回は、クリストフやピエールらマニュエルの友達がリョレト・デ・マルに来ていた。彼らは、サッカーの試合を見ることはなく、昼間は別行動で、夜のパーティだけ参加。バカンスを過ごすために来ていたのだ。エバはそうした一人だった。
彼女は僕が日本人だと分かると、「エミと同じく国の人ね」と嬉しそうな顔をした。
「エミ・ワタナベは今、どうしているの?」 彼女に尋ねられたが、エミ・ワタナベという知り合いがすぐに思い浮かばなかった。
「彼女とは大会で何度も一緒になったことがあるわ」
エバはスケート関係者だった。そこでエミ・ワタナベは「渡部絵美」だということに気がついた。
「日本ではテレビに良く出ていますよ」と答えたが、現役引退後急激に太ったこと、そのことが話題になったことには当然触れなかった。
エバは、元々はチェコ代表のスケート選手で国際選手権にも出場経験があった。現在はモンペリエでコーチをしているという。いつものことだが、フランスの懐の深さを思い知った。 
モンペリエに着くと、荷物をおいてすぐにヴェルジェーズへ。ヴェルジェーズはニームの近くに位置する、ペリエの産地である。マニュエルの三男ベノワの参加しているサッカー大会が行われていたのだ。
残念ながらベノワのチームは準決勝で敗退した。試合を見たが、12歳のカテゴリーでも目立つ選手はいた。白人、黒人を組み合わすことができるのがフランスの強みだ。

ベノワの試合を見ながら、こんな風にのんびりするのは久しぶりだと思った。
僕の場合、日本にいる時は、元旦から大晦日まで、毎日仕事というスタンスだ。休むのは朝まで徹底的に飲んだ時と病気で寝込んでいる時ぐらいである(傍から見れば、どこまで仕事でどこまで遊びなのか区別つかないかもしれないが)。
昨年は、中国、インド、小笠原。今年もツバル、ネパール、中国と様々な場所を訪れた。どこでも短期間に集中して取材をする。お金を掛けて、密度の濃い時間を過ごすことで見えてくるものがあるが、こぼれ落ちるものもある。
こののんびりとしたバカンスを、もう少しだけ楽しもうと思う。

カステルノー

急遽ベノワの「カステルノー」オフィシャルカメラマンとなった。
前列中央がベノワ。
彼は、広山選手や愛犬パブロと一緒にいつもボールを蹴っていた。左利きで鋭い切り返しが得意。10歳だが、一つ上の12歳のカテゴリーで試合に出ている。将来有望なテクニシャンである。
ベノワは、末っ子らしく、人に甘えるのが上手い。兄弟関係は、世界共通で、血液型や星座などよりも、性格に直接反映していると思う。

2008年5月9日

インターネットに接続すると、ハンドボール日本男子代表が韓国代表に敗れていた。
同じ相手と連続して3度対戦し、全て敗戦。これから世界最終予選で体格の違う相手と戦うというのに、アジア勢と連続して戦うことが強化に繋がるのかどうかも疑問だが(だから最初からこれらの試合取材は、僕のスケジュールに入っていなかった)、それ以上に3度連続、それも二度はホームで負けるとは……。
例えば、サッカーのブラジル代表が隣国のアルゼンチン代表に三度続けて負ければ、メディアからは叩かれ、選手はまともに道を歩けない。石や卵を投げつけられる。監督は当然解任、選手は総入れ替えだ。
同様のことが日本のハンドボールでは起こっている。日本は大切な世界最終予選を前にして、合宿を積んできた。そして、相手は五輪出場権を得て、これから本大会に向けて調整に入ろうとしている。
フルメンバーでもない。
当たり前のことだが、そんな相手に内容はともかく負けてはならない。この試合で学ぶことがあったとか、修正点があったとかいう言い訳は効かない。本当にそんなことを信じているのならば、これからもずっと負け続けて、永遠に学び続けていけばいい。 それを世間では“負け犬”と呼ぶ。
そんな“負け犬”が、メディアの注目が集まったとはいえ、クロアチアの世界最終予選で、世界の強豪を相手に五輪出場権獲得と言うのはおこがましい。まずは世界に恥をさらさない戦い方を考えたほうがいい。「中東の笛」以前に、お前たち、あまりに弱いじゃないかと失笑を買うことになる。

さて。
話をスペインに戻そう。
今年のリョレト・デ・マルの大会はかなりハードである。というのも、今回の大会はレベルが高い。
うちのチームにも黒人の選手が来ている。身長は僕よりも少し小さいのだが、身体の強さが半端ではない。フランス人は相当激しく当たってくるのだが、彼はびくともしない。押されながらボールをきちんとキープする。只者ではないなと思って聞いてみると、カメルーン代表としてワールドユースにも出場していた。スペインに負けたが、相手にシャビがいたという。スペインのムルシアなどでプレー経験があった。
彼の身体を見ていると、やはりお尻が大きい。セードルフやフッキを思い出した。押されても揺るがない体幹の強さはお尻の大きさと関係があるのではないかと僕は見ている。
他のチームにも飛び抜けた選手が何人かはいる。往年の元西ドイツ代表もいたらしい。とにかくレベルが高くて、まるで欧州リーグに移籍した日本人選手のように、僕の出番がなかなか与えられない。
昨日は後半残り十分。今日も同じような時間でピッチに立った。
短い時間では、とにかく走りまくるしかない。
動き回り、ボールを触ろうとするが、なかなかうまくいかない。そのうち、味方が退場で一人少なくなってしまった。僕のワントップとなり、前線から守備をすることが主たる仕事になってしまった。
それでもチャンスは来るものである。
サイドに抜けた選手が見えた。僕は真ん中に走り込むと、いいクロスが来た。キーパーと競り合いながら、右足でボールを触ったが、シュートには角度がない。僕はそのままボールを引いてヒールでゴールに向かって軽く蹴った…。ボールはゴールに向かってゆっくりと転がっていった。
ところが−−。
ボールはバーに当たって跳ね返った。味方のベンチでは大きなため息が聞こえた。
結局、シュートはこの一度だけ。ただ、試合後、相手チームを含めた多くの人から声を掛けられた。
フランス人はああいうシュートを打ったりはしないのだという。入っていれば“スーパー”だったが、目立ったことは間違いない。
次の試合は後半あたまから出場したが、雨が激しくなり、みなボールが足につかない。足元はぬかるみ、ラグビーのようになっていた。キーパーのこぼれ球だけを狙っていたが、いいボールは来なかった。
とりあえず我々モンペリエスポーツクラブは三勝一分で、グループリーグを首位で突破。うちのチームの強さは、勝者のメンタリティがあるところだ。勝負事はアマチュアでも勝たないと楽しくない。
この時期、晴れれば南欧はいい気候になるが、雨になるとかなり冷え込む。

リョレト・デ・マル

試合は激しく、怪我人も出る。額を大きく切って流血する人間が出てきた。
モンペリエスポーツクラブ会長のシャールは医師である。
試合終了後、控え室で会長自ら、傷口を縫い合わせた。

2008年5月7日

昨日からスペイン南部、コスタブラバのリョレト・デ・マルという街にいる。このwebではロレト・デ・マールと書いていたが、リョレト・デ・マルというのが正しいらしい。僕のスペイン語の発音は、ラテンアメリカのスペイン語やポルトガル語、フランス語までが入り交じって独特のものになっている、と指摘されたことがある。

さて。
この街に来ているのは、昨年と同じようにフランスのモンペリエという街のサッカークラブで大会に参加しているからだ (「週刊田崎」 07年5月16日参照)。
以前は、ブラジルへ行く前に立ち寄ったり、あるいは近くで仕事がある時に参加したりしていた。今年も、この時期に欧州大陸で仕事を作ろうとしたのだが、ことごとく失敗した。
一月にマニュエルか日本へ来た時には「行くつもりだ」と答えたのだが、行くことをためらっていた。
二月から五月まで、ずっと仕事に追われ、たまに走ったりして身体は動かしていたが、ボールを蹴ることはなかった。特に4月は、ネパールと北京、戻ってから北海道と出張が続いていた。断ろうと思っていると、マニュエルからメールが来た。
「クリストフやピエールも見に来ると言っている。彼らはスポーツクラブ(僕たちのクラブの名前)のメンバーと面識がない。お前がこないと困る」
クリストフやピエールは知的な紳士である (「週刊田崎」 08年1月4日参照)。
確かにスポーツクラブのメンバーとは、雰囲気が違っている。スポーツクラブのメンバーも社会的地位はある人が多いのだが、酒を飲んで服を脱いだり、人をプールに投げ込んだりと、思い切り体育会系のノリである (「週刊田崎」 04年5月21日など参照)。確かに、マニュエルは苦労するだろう。
しかし、フランス語のそれほど上手くない僕を緩衝材に使うか、と思わずメールに突っ込みを入れた。
行こうかどうしょうか悩んでいる時に、絵描きの下田昌克に話をすると、
「誘ってくれているんだから、そういう時は行ったほうがいいよ」
とあっさり答えた。
確かに、この時期のスケジュールは空けてあった。フリーランスの一番いいところは、縛りが少ないというところである。
友達を裏切るわけにはいかない。僕は、マイレージを使って、スペインに向かうことにした。
今日、フランスから続々とメンバーが到着した。一階のバーに集まって、パスティス、パスティス−−。パスティスの匂いを嗅ぐと、南欧にやってきたという実感が湧く。この不思議な酒は口当たりはいいが、酔う。あの田場裕也もこの酒には苦い思いがあり、手をつけない。サッカーはもちろんだが、様々な意味で楽しくも厳しい日々がやってくる。

リョレト・デ・マル

リョレト・デ・マルの街。この時期の南欧の気候は最高である。
暖かいが湿気が少なくて、ワインが旨く感じる。

リョレト・デ・マル

大会のために、マニュエルとオリビエと水を買い出し。
この後、水を車に積み込み、僕は水タンクの洪水で押しつぶされそうになった。

2008年5月4日

僕はゴールデンウィークなど休みの時に都内にいるのが好きだ。
薄手の革ジャンを羽織って、空いている首都高をオートバイで走ると幸せな気分になる。特に青い空が広がっている時は最高だ。
車は雨風が凌げて快適、そして安全だが、最高な気分にはなかなかなれない。一瞬の最高な気分のために、曇り空、小雨の中もオートバイで走る。
自分の人生もそんなものかもしれないと思うことがある。
ただ、今年のゴールデンウィークは都内にいられなかったのだが。

さて。
今日、札幌から帰京。
今回の取材は、今月二十四日発売の「GOETHE」(ゲーテ 幻冬舎)に掲載される。GWの僕のささやかな楽しみを放棄したが、非常に楽しい取材ができた。
組織人として仕事を最大限に楽しみ、こなしている藤井純一社長を描ければと思っている。
東京に戻って荷物を置いてから、今度は八王子へ−−。
ファンキー末吉さんのスタジオが完成したという連絡をもらっていたのだ。我らが「荒木町ハッピークラブ」でも使わせてもらおうと、“視察”に行くことにした。
まだ機材は揃っていなかったが、なかなか立派なスタジオである。
明日から、ラウドネスの二井原実さんのソロライブの練習が始まるので、ギターリストの田川ヒロアキさんがやってきた。
圧倒される巧さ−−。彼の演奏を聞くと、ギターをやめたくなったと感想を漏らすギターリストがいたのも頷ける。

ファンキースタジオ

田川さんは目が不自由である。手探りでギターの弾き方を覚えたので、独特のピッキングとフィンガリングで演奏する。アップピッキングが多いのだが、鋭いカッティング。ドラムはもちろん、ファンキー末吉さん。

2008年5月2日

昨日から札幌に来ている。
今回は、「GOETHE」(ゲーテ 幻冬舎)の取材で、北海道日本ハムファイターズの藤井社長に密着。
札幌は意外と暖かい。

札幌ドーム