週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。

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200811

2008年11月27日

前略
本日、無事にブラジル出張から戻りました。今回は、ホテルチェーン「ブルーツリー」を率いる青木智栄子さんの取材で、『GEOTHE』(幻冬舎)に掲載されます。
サンパウロで取材を終えた後、オーロプレットを通って北東部までバックパックを背負って出かけてきました。ここのところ仕事で様々なところに行っていますが、一人で旅するという緊張感はまた違ったものがありました。イリェーウスという街では、人と出会いがあり、楽しい休暇となりました。
当面は日本で取材、執筆することになります。
来週月曜日発売の『週刊ポスト』(小学館)のグラビアでは先月行った、南大東島の記事が掲載されています。是非ご覧ください。
取り急ぎ報告まで。

ブラジル

2008年11月23日

僕の泊まっている「モーホ・ドス・ナベガンテス」からコスタの店までは、砂浜沿いに歩くことができる。途中に小さな入り江があり、引き潮の時は膝まで浸からずに渡ることができる。ただ、昼間はかなりの深さになる。
先日は、コスタの娘、アナがサーフボードで迎えに来てくれたが、今日は水着だったので腰まで浸かって行くことにした。
店では、昨日会ったコスタの友達のジェニウトンが待っていた。ジェニウトンは退役軍人で、赴任先 の一つだったイリェーウスが気に入り、移り住んできていた。車で市内を案内してくれるという。
イリェーウスの街を一通り回った後、会員制のヨットクラブでビールを飲むことになった。レストランの前方には打楽器とベース、ギターの3人のバンドがいた。たまたま彼らは、ジェニウトンの知り合いだった。
ジェニウトンは僕をジーコを良く知っている男だと紹介した。
日本ではかなり麻痺しているが、ブラジル、特に地方ではジーコの威力は衰えていない。テーブルに あったビールのボトルから僕のグラスにビールが注がれ、あちこちと乾杯した。
「僕はフラメンギスタ(フラメンゴのサポーター)なんだ。ジーコはフラメンゴ史上最高、いやブラジルサッカーで最高の選手だった。世界のサッカー史上でも最高の選手の一人だよね」
バンドの一人が僕に話しかけてきた。
「彼はブラジル代表の監督をやらないかな。ああ、それより前に、フラメンゴの監督だな」
ジーコはブラジルのサッカー界に厭気がさしている。特に、バスコ・ダ・ガマのエウリッコ・ミランダや、CBFのリカルド・テシェイラとの関係が良くない。彼らと付き合いが出てくるため、そのどちらも引き受ける可能性は低いだろうと僕は答えた。
「もちろん僕はジーコのことが好きだけれど、一番好きなのは、ソクラテスなんだ」
僕が言うと、バンドのギター兼ボーカリストが嬉しそうに手を叩いた。
「ソクラテスは良く知っているよ。うちのバンドのライブにも何度も来ているんだ」
さすがドットール−−。
ソクラテスの取材をする時は、ヒベロン・プレットの「ピングイ」で待ち合わせ、四時間生ビールを飲み続けながら話を聞くのだというと、彼は大笑いした。
しばらくしてバンドの演奏が始まった。
ブラジルのどんなアーティストが好きかと尋ねられたので、「カルトーラ、最近のだとレニーニを良く聞く」と話していた。すると、レニーニの曲を演奏してくれた。
とにかくギターが巧い。 ブラジルのギターリストは指を使って器用に弾く。彼も五本の指を使って、弦を叩くように弾き、メ ロディを紡ぎ出した。
五弦のベースを使ったベースも安定して、ビートを刻んでいた。知り合いが演奏中に挨拶に来るのだが、握手をしながらも演奏は止まらない。さすがである。
僕もギターを弾くと話していたので、一緒にやらないかと誘われた。ブルースならば弾けるが、ブラジルの音楽はリズムが違うので残念ながら、無理。何より彼らとレベルが違いすぎる。
あっという間に時間が過ぎていった。結局、僕はバンドのメンバー、その友人たちから相当のビール をご馳走になり、気持ちよくヨットクラブを後にした。
コスタの店に戻ると、歯医者のホジェリオという男が飲んでいた。彼は日本のことが大好きだという 。サンパウロ州のイーリャ・ソルテイラ出身だった。
十年前、イーリャ・ソルテイラに行ったことがあると言うと、彼は喜んだ。彼は大学までサッカー をしており、地元のクラブの時の友人が、名古屋グランパスにいたことがあるといった。また(聞き間違いでなければ)、妻の姉妹が、ミノタウロこと、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの妻だという 。ビットリア・ダ・コンキスタ出身の奥さんはなかなか美人だった。
彼はかなり酔っぱらい、僕の分の飲み代も全て支払うと言い出した。
「ブラジル人は友人に奢るのが好きなんだよ」
そして、彼は宿まで送ってくれた。
ますますこの地が離れがたくなった。しかし、残念ながら、明日の飛行機で、サルバドールを経由し て、サンパウロに向かうことになる。

ブラジル

ビル・ゲイツにはなりたいとは思わないが、彼のようにギターが弾けたり、ロマーリオのようにフェイントができることには憧れる。そのどちらかを手にすれば、素晴らしい人生が送れるだろう。ブラジル限定であるかもしれないが。

2008年11月21日

宿の前は砂浜が広がっている。ゴミ一つない、サンダルを脱いで歩くと、指の一つ一つが砂をつかむ感覚が心地いい。僕の姿を見つた、白い蟹が慌てて砂の穴に潜り込む。
ここで育った子供が日本の夏の海辺を見たら、何と思うだろう。日本海側で育った僕は、初めて太平洋側の和歌山に行った時、砂浜が汚くて驚いた。東京近辺はそれどころではない。季節外れに、オートバイで海を見に出かけるのが丁度いい。
昨日はここでは2ヶ月ぶりの雨が降った。まさに天井に穴が空いたように大雨だった。
今日は雨が上がったので、レストランの主人、コスタと一緒に市場に買い出しに出かけた。カランゲージョ(蟹)、デンデ油などバイアらしい食材が並んでいた。
午後はコスタの末娘アナの学校の学園祭に出かけることにした。ここでも、バイアらしい演目があった。
バイアは、サンパウロやリオとはまた違った文化である。
ブラジルに惹かれるのは、何度来ても新たな発見があることだ。広い国土は、文化の多様性を自然に受け入れている。

ブラジル

コスタの車は相当ポンコツだ。フロントガラスは割れ、扉の内装は外れ錆びかけた金属が剥き出しに なっている。エンジンは、ブルドッグのように唸るが、あまりパワーはない。

ブラジル

アナの学校にて。バイアの白い服は、肌が黒ければ黒い程、良く似合う。

2008年11月19日

人と同じように街にも第一印象というものがあると思っている。10年前、僕が南米大陸を一人で旅した時、チリのバルパライソなど、幾つかの街を気に入り、一週間ほど滞在したことがある。
イリェーウスの街中からビーチへ渡る橋を渡る時、開放感を感じ、好きになった。
サンパウロ、そして日本に戻ってから仕事をこなさなければならないこともあり、無理な移動は諦めて、このイリェーウスでしばらく過ごすことにした。
海岸の街で過ごすというのに、僕としたことが、水着を持ってきていなかった。セントロまで出かけ、サーフショップで水着を、雑貨屋でアバイアーナのサンダルを買った。これで完璧である。

ブラジル

この街での滞在を決めたのは、もちろん、褐色のお尻に惹かれたわけではない。

2008年11月18日

適当にスケジュールを決めることは、大きく回り道をすることもある−−。
サンパウロを出る時、サルバドールに向かうとしか決めていなかった。約十年ぶりに、魅力ある古都サルバドールを見てみたいと思ったのだ。
すると、知り合いの写真家である西山幸之氏が、「サルバドールに行くならば、近くのイリェーウスにも寄ればいい」と言った。イリェーウスは、僕の好きな作家の一人である、ジョルジ・アマードの 小説の舞台になっている。
オーロプレットのバスターミナルでイリェーウス(ilheus)行きのバスを尋ねると、ベロオリゾンチからバスが出ているという。ただ、週に三便で、月曜日には便がなかった。
日曜日に街をすでに歩き回り、月曜日の朝は曇り空だった。ベロオリゾンチまで行けばなんとかなるだろうと、オーロプレットを出ることにした。
ベロオリゾンチまで約二時間。ベロオリゾンチのバスターミナルで尋ねると、イリェーウスに近い、ビットリア・ダ・コンキスタ行きのバスが20時半に出ていた。時間を潰して、そのバスに乗ることに した。
ところで、「イリェーウス」という地名は、発音しにくい。
「ェ」のところを強く言わないと伝わらないようだ。幸さんも厄介な地名の場所を教えてくれたものだと嘆いた。
さて。
ビットリア・ダ・コンキスタに着いたのは、予定よりも遅れ、翌朝11時になっていた。チケット売り場で尋ねると、イリェーウスに近い、イタブーナまで行って乗り換ればいいと教えられた。
イタブーナまでは距離的には数十キロなのだが、地元のバスで街のあちこちで人が乗り降りするので、結局五時間…。イタブーナで再びバスを乗り継いで、約一時間、ようやくイリェーウスの街に入っ た。
茶色く濁った大きな河を越えると、マングローブが茂っていた。街中を走り、海岸に出ると、椰子の 木が生えていた。
ところが−−。
バスの乗務員の言葉が、訛っていて何を言っているのか分からない。バスターミナルという言葉が聞こえたのだが、放っておくと、そのまま、ビーチ沿いを走り、街を出てしまったのだ。
いつもと同じように、バスターミナルで降りて、適当な宿を探そうと思っていたので、慌てて、乗務員と話をした。
彼は、バスターミナルには寄らないので降ろて欲しい場所を指定するように言ったのだという。仕方がなく、終点の隣町まで行き、戻ってくることにした。
暗くなる前に今日の宿を探したいと思っていたのにと思ううちに、どんどん日が暮れていく。
サンパウロで買った「クワトロ・ホーダス」(ブラジルのガイドブック)を開いて、適当な宿の近くまで、バスで連れて行って貰うことになった。
結局一時間以上バスに乗り、バスを降りた。しかし、通り沿いには、それらしき宿はない。クワトロ・ホーダスは車で移動するブラジル人向けに作ってあるので、ホテルやレストランの住所が羅列してあるだけである。地図がついていないので、外国人のバックパッカーにはあまり有益ではない。
仕方がなく、バックパックを背負って、海岸に向かって歩くことにした。海岸沿いには、連れ込み宿らしいモーテルが並んでいる。30時間近く移動してきて、その手の宿のベッドで眠るのはあまりに辛い。
陽がかなり落ちて、砂浜に面したレストランが目に入った。
店主に宿の名前を言うと、小高い丘を指さした。通りまで戻って、小道を歩いていかなければならないという。
やれやれ。
ビールでも飲んでいけば、という店主の誘いに乗ることにした。朝からほとんど何も食べていなかった。
魚料理とビールを頼むことにした。店主のコスタはポルトガル生まれで子供の頃にブラジルに来たという。
「宿のことは任せておけ。知り合いのところだ」
コスタが宿に電話して予約を入れてくれた。会話を聞いていると宿代を値切ってくれていた。
「食べ終わったら、車で迎えにくる。心おきなく飲んでいていいよ」
こういう出会いがあるから、旅なのだ。ビールが身体に染みた。
すっかり日が暮れてから、宿の人間が迎えに来てくれた。宿はコテージ形式になっていた。息を切らせながら、暗闇の中、バックパックを担いで坂を登った。
久しぶりのシャワーを浴びると、猛烈な眠気が襲ってきた。波の音を聞きながら、眠りに落ちた。
翌朝、コテージの扉を開けると、椰子の木の向こうに青い海が広がっていた。

ブラジル

オーロプレットからベロオリゾンチに向かうバスの中。この時はまだ元気だった…。

ブラジル

ビットリア・ダ・コンキスタからイタブーナに向かうバスの中。窓の外に、観覧車が見えた。僕は寂れた遊園地の観覧車が大好きだ。かなり疲れていたが、窓の外に向けてシャッターを切った。

2008年11月16日

金曜日に「GOETHE」(幻冬舎)の取材が終了。
今回は、ホテル・ブルーツリーグループの青木智栄子さんを取材した。
彼女と話していると、実は仕事は女性の方が向いているのではないかと思った。男性は、見栄っ張りで無駄が多く、燃費が悪い。女性の方がずっと実務的である。
もっともこの世の中は男性と女性の二つがあるから上手く行っているのだろうが。
智栄子さんは、非常に有能な経営者である同時に、可愛い女性だった(かなり年上なので失礼かもしれないが)。力強く、魅力的な彼女のところに人が付いてくるのは理解できる。記事の掲載は、来年になると思う。
さて−−。
土曜日の深夜からバスでサンパウロを離れることにした。
僕の場合、仕事で様々な場所を訪れている。傍から見ると、仕事なのか遊びなのか判別できないこともあるかもしれないが、やはり差はある。
仕事として、集中し、見知らぬ場所に挑むことで得られるものは大きい。ただ、時間的に限られていることもあり、重要なものを取りこぼすことがある。
一方、狙いを絞らずに、のんびりと旅することで、効率は悪いがすくい取れるものもある。その両方のバランスが大切だと思っている。
例えば、食事。
仕事で行く場合は、できる限り地元の美味しい料理を食べたいと思う。知り合った人に美味しい店を尋ねて、行くこともある(南大東島のように選択肢がない場合もあるが)。
一人旅の時は、適当に歩いて、地元の人で混んでいる店に入ることが多い。それはそれで楽しいのだ。
僕の“旅”の定義は二つある。
まず「一人」であること。
週刊ポストの連載で、下田画伯と行動する時に、一人では考えられなかった出会いをすることもある。ただ、人と行動する楽しみを享受するためにも、一人で旅することが必要だと思う。バスの中で流 れる風景をぼんやりと眺めることも必要なのだ。
もう一つは「行く先をはっきりと決めないこと」。
気に入れば長くいればいいし、そうでなければ先を急いでもいい。自分の感覚を大切にしなければならない。
一人で旅することは、特にブラジルのような国ではリスクが伴う。ただ、感覚を研ぎ澄まし、自分と 向き合うことで見えてくるものもある。
振り返ってみれば、僕は長い間、“旅”をしていなかった。
今年も、ずいぶん色々な場所に行った。フィジー、ツバル、バンコク、カトマンズ、北京、スペイン、フランス、ロサンゼルス、国内では沖縄、南大東島、京都などなど。
2008年も終わりつつある。久しぶりにバックパックを背負ってバスに乗ってみようと思ったのだ。
サンパウロのチエテ・バスターミナルで、深夜に出るバスを一人で待っている時、不安なような、わくわくするような、懐かしい感覚が蘇ってきた。いつもよりは短いが、旅は旅である。

ブラジル

夜中の12時前にサンパウロを出発し、朝8時にベロオリゾンチに到着。
バスを乗り換えて、約二時間、オーロプレットに到着した。

2008年11月11日

ロスでは、久しぶりに女子アメリカンフットボーラーの鈴木弘子さん、プロボディビルダーの山岸君に会った。仕事を快調に片付け(さらにギターも購入。ピックアップが一つしかない古いグレッチ)、 先週木曜日に帰国した。
日曜日は、我らが「荒木町ハッピークラブ」のライブ。買ってきたグレッチを使いたいと思ったので、結果として三本のギターを持ち込んだ。音の切り替えが増えてしまったため、ギターの音が全く聞こえなくなってしまったなどのトラブルはあったが、とりあえず盛り上がることはできた。
そして、翌日夕方のアメリカン航空で、ダラス・フォートワース空港へ。
ここ10年ほど、スターアライアンスの航空会社ばかり乗っているので、アメリカンに乗るのは久しぶり。ダラスの空港は、確か10年以上前、ペルーの日本大使公邸事件でリマを往復した時以来だ。
そして、また−−。
入国審査で指紋が出ないと別室に回された。1、2時間待たされることを覚悟していたが、十数分で名前を呼ばれて無事に入国することができた。
ダラスでサンパウロ行きの飛行機に乗り、ブラジルに到着。搭乗してから二時間以上、飛行機が飛ばなかった。日本を出てから30時間以上たって、サンパウロに到着することができた。

ブラジル

翌日のサンパウロは曇り空。 今日は、水曜日−−そう、フェジョアーダの日。
「スターシチィ」に出かけ、脳が酸欠状態になるまで食べた。やはり旨い!